【帰れない二人】 692氏



戦場という狂乱の宴会場の渦中にあって、その瞬間その場所だけは異様なまでの静けさに包まれていた。
「……終わったね」
両足を揃えて地面に座り込み、軍服の女が呟く。栗色の長い髪が印象的な、戦地には不似合いなほど温和な顔立ちをした女だった。

しかしその穏やかな顔は泥と埃に汚れていて、この場所が戦場であることを否応なく再確認させてくれる。
「……終わったね」
もう一度、女は呟く。呟きながら、優しく手を動かす。その手は、彼女が膝枕している人物の頭を撫でていた。
女の膝に頭を乗せて、一人の男が横たわっている。額にバンダナを巻いた男は満身創痍の状態で、わずかに上下する包帯を巻かれた胸だけが、彼が生きている証だった。
「……終わっ、た、ね……」
三度目の呟きは、嗚咽混じりで言葉になっていない。
女は男の頭を優しい手つきで撫でながら、戦場の真ん中で静かに慟哭した。
女の名をマリア・オーエンス、男の名をトニー・ジーンといった。
そこは、ずっと遠くの方から聞こえる銃声や爆発音以外は何の音もしない、静かな静かな戦場の真ん中。
疲れ果てた二人の男女の姿を、大地に膝をついた傷だらけの巨人だけが、沈黙を纏って見下ろしていた。



帰れない二人



マリアとトニーは、何の変哲もない一組の男女に過ぎなかった。
ただ、彼らの職業が兵士だったというだけ。
ただ、初めての出会いが兵舎の中だったというだけ。
ただ、デートの場所が戦場だったというだけ。
そういった些細な問題を除きさえすれば、彼等はごく普通の出会いを経てごく普通に惹かれあい、ごく普通に祝福されて結ばれた。
ただそれだけの、実に平凡なカップルの一組に過ぎなかったのである。
その運命が変わり始めたのは、激化する戦争の中で強化人間という概念が生まれた頃だっただろうか。
強化人間。その名のとおり、外科的な手術や集中的な投薬により身体能力を強化した兵士の呼び名。
戦後の蓄えを増やし、マリアを幸せにするため。
そう言って、心配するマリアの手を振り払い、トニーは手術室に消えてしまった。
そして、彼が帰ってきたとき、マリアは知った。
何の変哲もない二人の男女として過ごした時間は、もう二度と戻ってこないのだということを。

疲れ果てたトニーの顔を優しげな顔で撫でながら、マリアは無言で後ろを振り仰ぐ。
彼らの姿を見つめているのは、ザクという名の単眼の巨人。
マリアと共に幾多の戦場を駆け、幾多の死地を潜り抜けてきた鋼鉄の機械。
以前は二本の足で堂々と大地に立っていたそれは、今や右腕と胸部ハッチが吹き飛んだ、痛々しい状態でかろうじて膝をついているに過ぎない。
この機体が立ち上がり、再び敵を倒す日はもう永遠に来ないだろう。
「今日まで、私をトニーの傍に立たせてくれてありがとう。お前もゆっくりお眠り」
単眼の光すら失った自分の機体に、マリアは静かに呼びかけた。

二人の日常は、その後も基本的には変わらなかった。
命令を受け戦場に赴き、敵を撃破して帰還する。
変わったところといえば、手術後のトニーの撃墜スコアが飛躍的に向上したことと、彼の口数が極端に少なくなってしまったことだけ。
マリアは、ただ無言でそんなトニーの傍にあり続けた。
たとえ笑いかけてくれなくても。
たとえ優しく呼びかけてくれなくても。
たとえ抱きしめてくれなくても。
彼女にとって、彼がトニーであることに変わりはなかったから。

マリアは自機であるザクの足元に視線を落とす。
そこには、もう一機のザクが倒れ伏していた。
腕がもげ、足が潰れたその機体は、トニーの乗機。
幾多の戦場を駆け、幾多の敵の命を飲み込んできた単眼が再び輝くことは、もう二度とないのだ。
「……終わったね」
マリアはトニーの乗機を見つめながら、静かに呟く。
恐らくこの戦争一番の激戦と呼ばれるであろうこの作戦で、彼らが所属していた隊は全滅。
奇跡的に生き残った二人も、満身創痍だった。
戦闘の中心はかなり遠くの方に移っているようで、時折途切れがちの銃声が聞こえてくる以外、一切の音が消えていた。
死地の静寂に抱かれながら、それでもマリアは泥だらけの顔で穏やかに微笑む。
「私、疲れちゃった……」
意識を失ったままのトニーに囁きかけるように、マリアは呟く。
「トニーも、もう疲れたよね? だから、もういいの。頑張らなくていいの。一緒に帰ろうね……」
夢見るように呟き、マリアは目を閉じる。
瞼の裏をよぎるのは、変わってしまう前のトニーの面影ばかりだった。
いつだったか、故郷の町にマリアを連れて行きたいと言っていたのを思い出す。
春になれば綺麗な花で溢れる草原の道を、マリアに見せてやりたい。
そう言って照れくさそうに微笑んでいた青年は、もうどこにもいない。
「でも、いいの」
記憶の中、もうおぼろげにしか思い出せないトニーの笑顔に、マリアは微笑を浮かべる。
「もう、何もかも終わったんだから。一緒に手を繋いで、あなたの故郷に帰りましょう、ね?」
真っ暗な視界の中、手探りでトニーの頬に触れる。
手の平を通して、失われつつあるトニーの体温が伝わってくる。
マリアはただ最後の時間を穏やかに過ごせるようにと、静かに神に祈った。
だが、彼らを包む静寂は、爆音によって引き裂かれることとなった。
目を開いて空を見上げると、赤く染まった空に爆撃機の影を見つけた。
二人の敵兵を狙っているのか、半壊状態のザクを狙っているのか、どちらかは分からない。
爆弾は一発ではなく、周囲には断続的な爆音が響き渡った。
吹き荒れる爆風の嵐の中、マリアはトニーを抱き起こし、すっかり軽くなった彼の体を無言で抱きしめる。
迫り来る死。しかし、マリアの胸に恐怖はない。
ただ、最後の瞬間にトニーと一緒にいられるのだという奇妙な安堵感だけが、彼女の心を温かくしていた。
「……トニー?」
マリアは驚きに目を見張った。
胸に抱き寄せたトニーが、目を開いている。光を失った瞳で、あらぬ方向を見つめている。
マリアの鼓動が高鳴った。最後の瞬間、神様が奇跡を起こしてくれないかと。もう一度、トニーが自分に笑いかけてくれないかと。
しかし、気付いてしまった。トニーの瞳が、自分の方など少しも見ていないということに。
「トニー?」
呼びかけても、返事はない。爆風でマリアのザクが仰向けに倒れても、トニーの瞳だけはじっと空を見つめている。
いや、空ではない。空を飛ぶ、敵の爆撃機だけを見つめている。
そして、獣じみた唸り声を上げて、トニーはマリアを突き飛ばした。
マリアは小さく悲鳴を上げて、しりもちをつく。顔を上げると、爆風で舞い上がる土煙の向こうに、立ち尽くすトニーの姿が見えた。
トニーはふらつく足で二、三歩前に進み、腰の拳銃を引き抜いて空に向けて撃った。
トニーはまだ戦っていた。無駄だということを理解せず、ただひたすら空の敵に向けて引き金を引いていた。
マリアは立ち上がり、トニーに駆け寄って彼を後ろから抱きしめる。
「トニー、もう止めて、もういいの、戦いは終わったの、あなたはもう戦わなくていいのよ!」
必死の呼びかけ。しかし、トニーは振り向きもせずに、マリアの体を振り払う。
一瞬たりともこちらを見てくれない恋人の背中を、マリアは呆然と見つめる。
トニーは見てくれない。自分の方を見てくれない。彼の瞳に映るのは、ただ戦場と敵の姿だけ。彼の瞳に、自分の姿は映らない。
彼の心に、もう自分の居場所はない。
マリアは血が滲むほどに、拳を握り締める。その瞳の中で、狂気じみた炎が踊り狂った。

「どうやらそろそろ終わりみたいですね、大尉」
「そうだな」
モニターに映るベイツ・ガラッドにに返事をして、マーク・ギルダーはため息を吐いた。
自機であるジムのコックピットに、血の臭いがこびりついている気がする。
無論それは錯覚に過ぎないのだが、マークは込みあげる嫌悪感を振り払うことができずにいた。
(気をつけろよ、お前はロマンチストなんだからよ。敵を撃つのを躊躇ってちゃ、すぐに死んじまうぜ?)
戦闘前に冗談めかしてそう言っていた、エルンスト・イェーガーの姿を思い出す。
その戦友も今はもういない。彼の隊で生き残ったのは、彼自身とさっきからモニターに疲れた表情を映している同僚だけだった。
(何人、死んだんだろうな)
ふと、思う。敵も味方も、失われた命は数え切れないだろう。
(何人、死ぬんだろうな)
ふと、思う。戦争はこの一戦で終わりではない。
これからも、自分は敵を屠り続け、この体には拭いきれない血の臭いがこびりついていくのだろう。
マークは首を振った。考えれば考えるほどに、気が滅入るばかりだった。
「どうしたんですか、大尉」
「いや、何でもない」
「しかし、さすがに疲れましたね」
ベイツは乾いた笑いを浮かべる。
「生き残ったのは俺と大尉だけですか」
「そうだな」
「皆死んじまった。エルンストもサエンもジュナスも、皆揃って二階級特進だ。俺が一番下っ端になっちまいましたよ」
「そうなるか」
「そうなりますね」
しばらく、二人は無言だったが、やがてベイツがぽつりと呟いた。
「大尉、俺、軍抜けますわ」
「この時期にか?」
「今は無理でしょうけど、この戦争だってその内終わるでしょ? ダチもほとんど死んじまったし、もう未練はありませんやな」
「そうか」
「さすがに疲れましたよ。故郷に帰って家業でも継ぐことにしますかね」
そう言って、ベイツは少し元気な顔を見せる。マークも笑みを返し、ふと自分の故郷を思い出した。
厳しい父、優しい母、勝気な姉に元気な弟。
今はもう一人もいない。思い出の家も爆撃で粉々だ。
(俺の居場所は戦場にしかない、か)
マークはため息を吐く。帰るところがあるベイツを少し羨ましく思いながら、彼のジムを見つめる。
そして、彼のジムが銃撃で大きく傾ぐのを見た。
「敵!?」
マークは慌てて前方を見る。ずっと向こうの方に、ザクの機影が見えた。
「た、大尉!」
悲鳴のような声。ベイツのジムから火花が散っているのが見える。
「脱出しろ、ベイツ!」
「だ、ダメです! ハッチが開かなっ……か、母さぁぁぁん!」
絶叫を残して、ジムがバラバラに吹き飛んだ。
しかし、呆然としている暇も胸を痛めている暇もない。マークは素早く機体を動かし、敵の射線から逃れるように移動を開始する。
そういったことがごく自然に出来てしまう自分に、もう違和感も感じない。
敵に撃ち返しつつ前進していたマークは、不意に眉をひそめた。
モニターに映るザクのハッチが吹き飛び、コックピットがむき出しになっていた。
そんな状態で、敵はマシンガンを撃ちながら前進してくる。よく見ると、そのザクは半壊状態で、戦う姿はまるで幽鬼のようだった。

「て、て、敵ぃぃ……俺のぉ……敵ぃぃ……!」
血走った目を見開き、操縦桿を握ったトニーは一心不乱に前方のジムを見つめている。
シートの傍らに立ち、トニーの横顔を見つめながら、マリアは呪詛のように呟く。
「一人では死なせないわ。死なせてやるものですか。あなたは覚えていないでしょうけど、私はあなたの恋人なの。そう、私はあな

たにとって一番大切な人。あなたにとって一番大切なのは、戦場でも敵でもなくて、この私なのよ」
マリアはトニーの体を抱きしめる。決して離さぬよう、強い力を込めて。
「そうよ……あなたは一番大切な私と一緒に死ぬの、トニー! 地獄の業火の中で、全身全霊をかけて私の存在を思い出させてあげる……!」
トニーの耳元に囁きかけるマリアの顔には、凄絶な笑みが浮かんでいた。

「何だ、あいつは……!」
胸に込みあげる嫌悪感と苛立ちに任せて、マークはビームスプレーガンを撃つ。
半壊状態のザクを見ていると、心が荒れ狂うようだった。
ビームの嵐など見えてもいないかのように、ザクはひたすら真っ直ぐに前進してくる。弾が当たるのを気にしていないようだった。
「何を考えてるっ」
悪態を吐きながら、マークはモニターの映像を拡大する。
そして、ハッチが吹き飛んでむき出しになったザクのコックピットの中に、二人の男女の姿を発見した。
シートに座る男を抱きしめる、栗色の髪の女。
その女の顔に浮かぶ、いっそ安らかにすら見える狂笑を見たとき、マークは唐突に理解した。
「死にたがりか……貴様ら!」
呟く間にも、ザクは真っ直ぐ突っ込んでくる。ザクマシンガンの弾が切れたらしく、無事な左手にヒートホークを握っている。
敵の動きは直線的だ。いちいち狙う必要もない。弾は一発でいい。
モニターに映る二人の男女を見つめながら、マークは唇を噛む。
撃ちたくない。そう思っている自分がいた。
しかし、その自分は、兵士としての自分にあっという間にねじ伏せられる。
躊躇いは、ほんの一瞬だけ。マークは無言でむき出しのコックピットに照準を合わせ、静かに引き金を引いた。
刹那の時間が永遠に引き延ばされる。
直進するビームが、曲がることも逸れることもなく、無慈悲に二人の男女を飲み込むのを、マークは見た。
二人の人間の姿が、目を焼く光芒の中に消えていく。
男は最後まで操縦桿を握り締め、敵意ある視線をこちらだけに向けていた。
女は最後まで安らかな、狂った微笑を浮かべて呪縛するように男を抱きしめていた。
お互いの視線が交わらないまま、二人の姿が光の中に消えていく。
その最後の瞬間、マークの脳裏を一つの光景が横切った。

どこまでも続く草原。
穏やかに注ぐ春の日差し。
色とりどりの花の中を、二人の男女が手を繋いで歩いていく。
柔らかな風に抱かれ、お互いにくすぐったそうな微笑みを浮かべながら、ゆっくりと歩いていく。
そんな悲しい幻を、見たような気がした。

気付けば全てが終わっていた。
マークの目の前にあるのは、優しい風が吹く草原でも、穏やかに注ぐ日差しでもない。
ただ、戦火に汚された赤い荒野と、燃え上がるザクの残骸だけが、そこにある。
二人の男女は吹き飛ばされ、その姿を見ることはもう出来なかった。
「……クソがっ」
爆発し、あっという間に炎に包まれるザクの姿を苛立たしげに見つめながら、マークはコックピットの中で悪態をつく。
「そっちが死にたがりでもな、こっちは殺したがりじゃないんだよ」
やるせないその呟きは、ザクが炎上する音と煙に紛れて、赤い空に虚しく消えていった。