【She may have some secret. 】172氏



「嘘じゃないってば、本当に聞いたの!」
 カチュア・リィスがそんな風に耳元で喚くのを、ショウ・ルスカは眉を顰めて我慢している。
 ここはショウの――-正確にはショウとルームメイトの――-私室である。
 つい先ほど戦闘を終えたショウ達は、面倒くさいブリーフィングを済ませて解散した。いつも何かと仕事を抱えているショウのルームメイトはそのまま彼の仕事場へと向かい、ショウはひとりで自室へと戻っていた。
 そこへ、カチュアの訪問である。
 もうしばらくはゆっくりしていたい、というのがショウの正直なところであった。
「信じられないよ、そんなの……」
「だから、私は本当に聞いたんだってば!!」
 机に突っ伏して気だるげに言うショウの態度にムッとしたのか、カチュアのボリュームがひとつ上がった。
 元々甲高いカチュアの声は、疲れた耳には一際やかましく響く。
 このまま喚き続けられてはたまらない、とショウは渋々顔を上げた。
 そして、頬を膨らせたカチュアの愛らしい顔に向かって、こう問い掛けた。
「本当に、フローレンスさんがそんなにひどいこと言ったの?」

She may have some secrets.

 フローレンス・キリシマといえば、Gジェネレーション隊にその名を知らない者はいない。
 腰まで長く艶やかに伸びた濡れ羽色の髪、アジア系に特有の子どもっぽい顔立ちに似合わない大人びた表情。いつも白地に真紅の薔薇をあしらったチャイナドレスをまとい、腰まである深いスリットから時折覗く脚は最高のバランスでついた筋肉が見事な脚線美を描き出している。
 そんな完璧な容姿に加え、決して強く物を言うことのない控え目な性格も、荒ぶる戦士達の中では好意的に受け止められた。男達の間で密かに言われている「Gジェネレーション4大お嬢様」――-ワガママ女王様のシャロン・キャンベル、勝気の塊のようなネリィ・オルソン、母のように強く優しいエターナ・フレイルにフローレンスを加えた4人――-の中で最も普遍的な支持を得ている理由はそこにあるのであろう。ちなみに比較的若年の層にはエターナが、女も兵士と考える層にはネリィが人気であり、シャロンはごく一部で狂信的なまでの支持を得ている。
 その彼女は現在、ショウ達も乗り組んでいるネェル・アーガマで第一小隊の隊長を務めている。副官にエターナ、そしてルロイ・ギリアムとコルト・ロングショットを従えた部隊で、主として第二小隊の後方支援に当たっていた。もっとも敵部隊の数が多い場合にはそれぞれ小隊でひとつずつの陣形を組み、各個迎撃を行うこともあった。
 そして今回は後者の状況であったのだった。
 カチュアがショウの部屋を訪れる、数時間前のことである――-

「もう逃がさないよ! いなくなれーっ!」
 カチュアの気勢とともに、ベルティゴのビットが敵機へ殺到する。
 宇宙世紀のファンネルと酷似した無線誘導兵器はカチュアのイメージをトレースして動き、敵機の各部にビームによる攻撃を加えていく。その一条が敵機のバックパックを貫き、プロペラントに引火した。
 爆砕する敵機を確認して、カチュアはビットに帰還を命ずる。
 前腕部に内蔵されたビームライフルを構えて周囲を警戒するカチュアに、隊長からの通信が入る。ショウ、そしてフローレンスらと協力して左翼の敵の迎撃に当たれ、との指示だ。元気よく「了解!」と答えながら、ベルティゴをその方向に向かわせる。
 巡航能力に優れるベルティゴは、他のモビルスーツよりも素早く戦線を移動することが出来る。同じ宙域で戦っていたはずのショウより一足早く左翼の戦線にたどり着いたカチュアは、両手に奇妙な形のビームライフルを装備して敵機を迎撃する白いモビルスーツに気がついた。
 フローレンスのDガンダムであった。
「援護するよ、フローレンス!」
 言いながら、ビットを展開する。フローレンスが相対していた敵機は量産型が6機。2小隊分である。フローレンスの技量は他のパイロット達に引けを取るものではなかったが、余裕のある状況とは言えまい。
 一番近くにあった敵機に狙いを定め、ビームライフルを一射。それを追いかけるようにビットが殺到する。敵部隊がカチュアへの対応をとる前に、1機が火球と化した。
 機数を減らした敵部隊のフォーメーションが崩れる。その隙を見逃すほどカチュアは甘くないし、それはフローレンスも同様である。
 3丁のビームライフルと無数のビットの攻撃により、平凡な量産機で構成されていた敵部隊は為す術もなく全滅した。
「ありがとうございます、カチュアさん」
 一段落した合間に、フローレンスから通信が入った。
 フローレンスは誰が相手でも「さん」を付けて呼ぶ。それは最強のパイロットと賞されるマーク・ギルダーやオグマ・フレイブに対しても、能力はそれなりでもまだ子どもに過ぎないカチュアらに対しても同じであった。そのことは、どうしても子どもであることにコンプレックスを持ってしまうカチュアにとっては些細だが嬉しいことである。
「仲間だもん、トーゼンでしょ☆」
 モニター越しのフローレンスにウインクを送ると、いかにもお嬢様らしい控え目な笑い声が返ってくる。カチュアもそれに、満面の笑みで応えた。
 彼女もフローレンスのことを好きなひとりなのである。
「ふふふ……っ!?」
 と、カチュアの表情から笑みが消えた。一瞬遅れてフローレンスも何かに気づく。和やかなムードは吹き飛び、互いのコクピットに戦場が帰ってきた。
「来るよ! 強いやつ!」
「11時方向……モビルスーツ!」
 カチュアが直感的に感じたものを、フローレンスはセンサーを通じて理解する。間もなくその正体は肉眼で確認できる距離へ接近していた。
 青い機体だ。フォルム自体は先ほどの量産機とほとんど変わらない――-頭部に角がつけられているようではある――-が、動きがまったく違った。ほとんど直線の高速移動でありながら、何度も微妙に軸をずらして迎撃に備えている。
 事実、咄嗟にDガンダムとベルティゴが放ったビームライフルは紙一重のところで虚空に散った。
「速っ!?」
 カチュアの呻きのとおり、迎撃を恐れない機動が瞬く間に距離を詰めてくる。
 そのまま敵機はベルティゴに狙いを定めたらしく、トマホーク状のビーム兵器を携えて突っ込んでくる。
 しかしベルティゴの反応は一拍遅い。コクピットのカチュアがビットで迎撃するかサーベルで迎え撃つかを迷ってしまっていた。
 その間に敵機はベルティゴを間合いに捉える。振り上げられるビームトマホーク。ベルティゴの迎撃はもはや間に合わない。
 目の前で武器を構える敵機への恐怖に、カチュアの身体が硬直した。
「や……」
「カチュアさんっ!」
 間一髪のところでカチュアの視界を遮る白い背中。Dガンダムだ。
 ビームトマホークの斬撃を左腕で受けたDガンダムはそのままベルティゴを巻き込んで吹っ飛ぶ。
 もつれあいながらどうにか姿勢を立て直し、カチュアは状況を理解する。
 フローレンス、ごめん!
 そんな風に謝ろうとしてカチュアは無線機に向かったが――-
「こ………この野郎ッ! ブッ殺ぉぉぉぉす! ずえったい許さぁぁん!」
 ――-逆に無線機から響いてきたのは、汚い罵倒の言葉だった。
 今ベルティゴはどこからの無線も受信していない。ベルティゴの回線に言葉を伝えられるのは、装甲同士が触れ合っているDガンダムだけである。そして、Dガンダムのパイロットはフローレンスである。ということは……?
 導き出される結論は、カチュアを混乱させた。
 そんな? まさか? フローレンスが?
 しかしカチュアの動揺を余所に、隻腕のDガンダムはベルティゴから離れて青い機体へ向かっていく。
 その背中を見つめながら混乱を深めるばかりのカチュアに、今度は無線回線から通信が入った。
「カチュアちゃん? どうしたの?」
 いつの間にか接近していたショウのXディバイダーからであった。
 不思議そうな疑問の声にやっと正気を取り戻したカチュアは、新たなモビルスーツ部隊が接近しているのを感じ取って、とりあえず混乱の種を放り出した。
「な、なんでもない」
「そう? それじゃあ、行くよ!」
 Xディバイダーが左手にハモニカ砲、右手にビームマシンガンを構えて前進する。
 カチュアは慌てて、ベルティゴをそれに従わせた。

「――-っていうわけだったの」
 説明を終えたカチュアは大きく息をついて、ショウのルームメイトの椅子に腰を下ろした。
 話を聞いている間に淹れていた紅茶をカチュアの前に差し出しながら、ショウは首を傾げる。
「何かの聞き間違いじゃないかなぁ……だって、フローレンスさんでしょ?」
「何をどう聞き間違えたら『この○×☆#野郎! $%*を♭℃@して▼♪◆◎してやる!!』なんて言葉になるのよ!」
「カ、カチュアちゃん!?」
 カチュアの口から飛び出したとんでもない単語群に、ショウは危うく紅茶を噴き出しそうになる。確かさっきの話では、この野郎、ぶっ殺す、絶対許さん、程度だったはずなのに……後半はもうショウも知らない言葉になっていて、さっぱり意味が解らない。ただ女の子が口にしていい言葉ではないというのは直観的に解った。
「そんなすごいことじゃなかったんでしょ!?」
「え? あ、あはは……そうだっけ」
 そうだよ。本来の話では。
 ますますカチュアの話に不審を抱きつつも、ショウは改めて紅茶を一口飲み下す。疲れた身体にまろやかな苦味と暖かさが広がって、慌てた心まで落ち着かせていく。
 ほう、と一息ついて、カチュアに向き直った。
「……ともかく、フローレンスさんだってお嬢様でしょ? そんなバルチャーみたいなこと言うなんてとても思えないけどなぁ……」
 ショウにしてみれば、同じ艦に乗り組んでいるフローレンスはエターナと並んで身近な存在である。艦内では何度も顔を合わせるし、面倒見のいいエターナとよく一緒にいることからショウ達がエターナと遊ぶときは大抵フローレンスもいる。その分、彼女の淑やかさはよく知っているつもりだった。
 その経験から言えば、フローレンスは間違ってもそんな暴言を吐くタイプではない。まして、カチュアの言ったようなことなど、聞いたら卒倒してしまいそうなほどに思える。
 しかしカチュアは、フローレンスがそんなことを言ったと言い張っていた。
 にわかには信じられない、が。
「だから私は聞いたんだってば! どぉして信じてくれないの、ショウ!」
 少しやかましくはあるが、カチュアは間違いなく美少女である。そんなカチュアに切なげな上目遣いで見つめられれば、ショウの反論も鈍る。
「いや、でもさ……」
「もう、いいよ! ショウは私を信じてくれないんでしょ! バカ!」
 とうとうカチュアは目元を覆って俯いてしまった。時折、すするような音も漏れてくる。
 まずい、泣かしちゃった……。
 そんな風にショウが思ってしまうのも仕方なかった。
 男はいくつからでも、いくつになっても、女の涙には勝てないものだ。特にショウのような穏やかなタイプは。
「ごめん、カチュアちゃん、あんまりに意外だから驚いちゃって……」
「えぐえぐ……ショウのバカ……」
「あのさ、信じるから、泣かないで……!?」
 「信じるから」とショウが口にした瞬間、カチュアの顔が跳ね上がった。その満面の笑みには、涙の跡も何もあったもんじゃなかった。
「ホントに!? 信じてくれる? 信じてくれる!?」
 ウソ泣きだ、と悟ったときにはもう遅い。さっき以上の勢いで迫って来るカチュアに抗う術は、もはやショウにはなかった。
「……信じます」
 何故か敬語で答えるショウの前で、カチュアは可愛らしくガッツポーズを作ってみせた。

「それで、僕らは今どこに向かってるの?」
 ネェル・アーガマの居住区をカチュアに手を引かれながら、ショウは小声で問い掛けた。
 カチュアの足取りはしっかりしていて、迷いがない。すでに彼女の中で行動は決まっているようだった。
「決まってるでしょ」
「?」
「フローレンスをつけるの! きっと、誰も見たことがない本性があるのよ……!」
「そ、そうかなぁ……」
「そうなの! 女の子は誰でも、人には言えないような秘密を持ってるものなんだから!」
 そう言うカチュアの目はキラキラと輝いている。
 明らかに好奇心だけで動いているカチュアにいささかの不安を覚えつつも、ショウはとりあえず彼女に従うことにした。こんな公衆の面前でまたウソ泣きでもされてはたまらない。
「いたわ! フローレンスよ!」
 カチュアが小さく叫ぶが早いか、ショウは曲がり角の陰に引っ張り込まれた。
 その言葉どおり、そっと覗いた通路の先にはチャイナドレスの後ろ姿があった。すらりとしたスタイルに流麗な黒髪、そしていくら軍規の緩いGジェネレーション隊とはいえ、艦内でそんな格好をしているのはフローレンス・キリシマに間違いない。
 まるでファッションモデルのようにしなやかに歩いていくその様は、やはりショウが抱いているフローレンスのイメージと同じである。つまり、カチュアの言ったようなことを言うようには見えない。
 と、フローレンスの前方からこちらに向かってくる人影。
 地球連邦軍の軍服に珍妙な髪型は顔を見るまでもなくその正体を解らせる。ネェル・アーガマではフローレンスの指揮下に入っているパイロット、ニール・ザムだ。
 ニールは片手を挙げてフローレンスに挨拶すると――-仮にも隊長である彼女に取るべき態度ではないが――-そのまま二言三言口にしたようだった。フローレンスは口許に手を当てて――-笑っているらしい――-何事かを口にした。今度はニールの方がショウ達まで届くくらいの大声で笑って、それからすれ違った。やりとりの中で特に変わった様子はない。
 ニールはそのまま通路を進んで来て、そして曲がり角に隠れているショウ達に気付いた。
「そんなとこで何をしている、小坊主共」
 「小坊主共」。その言い様にムッとするカチュアを手振りで宥めつつ、ショウはあまり大柄ではないニールの三白眼を見上げた。
「あの、ニールさん。今、フローレンスさんと何を話してたんですか?」
「うん? 大したことじゃない。今日のお互いの戦果について称え合っていただけだ」
「そうですか……」
 やっぱり、フローレンスがそんなことを言うはずがないんだ。
 そう思い直すショウの脇からカチュアが顔を出す。
「戦果なんて言って、アナタ今日もエターナの後ろから適当に撃ちまくってただけじゃない」
「な、なんだとコイツ! オレを愚弄する気か!?」
「何よ、ほんとのことじゃない。みんなアナタが口ばっかりの小心者だって知ってるんだからね」
「な、な、な、何を言うか、こ、こ、こ、このガキ!」
「やーいやーい、タマなしニール〜」
「タ、タマ……!! 貴様みたいな寝小便垂れのガキに言われたくないわ!」
「寝……!? アナタ、レレレレディに向かって何言うのよ! わ、わた、わたしがおおおおねしょなんてするわけないじゃない!」
「どうしたそんなに慌てて。はは〜ん、さては図星だな?」
「うるっさい! このスネオヘアー!!」
「なっ!? 何だとこのロリータブリッ子!」
「ま、まぁまぁ、ふたりともその辺に……」
「「ショウは黙ってて(ろ)!」」
「あう……」
 制止をものともせずどんどんしょうもない方向へ加速していくカチュアのニールの口喧嘩を呆然と眺めて、ショウは溜め息をつく。
 どこで覚えてきたのかわからないような言葉で罵るカチュアと、まだローティーンの少女相手に本気で喧嘩腰になっているニール。そして、それに付き合わされている自分。一体どうしてこんなことになっているのやら……と思って、ショウははっと気付く。
 慌てて周囲を見渡しても、フローレンスの姿はどこにもない。口喧嘩の間に見失ってしまったらしい。
「カチュアちゃん、フローレンスさん行っちゃったよ!」
「え!? あ! 忘れてた!」
「どうしたションベン垂れのウンコ垂れ!」
「〜〜〜〜〜〜!! あんたなんかねぇ……」
「カチュアちゃん、もうストップ!」
「……今日はあんたに付き合ってる暇はないのよ、×□☆#野郎!」
「だからそんな言葉どこで覚えてくるのさ!?」
 もうほとんど悲鳴と言っていい声をあげながら、ショウはカチュアの手を引いてニールから引き剥がす。フローレンスを追うにしろ追わないにしろ、このままニールと口喧嘩をさせていてはやかましいし、何より自分がカチュアを嫌いになってしまいそうだった。
 珍しく自分からカチュアの手を握って走るショウは曲がり際、置き去りにしたニールの姿を見遣った。そこには――-
「……ほ………け………」
 ――-真っ白に燃え尽きたニールが床に突っ伏していた。
 合掌。

「ねえ……まだ続けるの?」
 再びカチュアに引っ張られているショウが、気乗りしなさそうに問う。
「当たり前じゃない、だってまだフローレンスの秘密を……?」
 ふと、カチュアが歩みを止めた。勢い余ってその背中にぶつかりそうになるショウ。
「ど――-」
「静かにっ」
 どうしたの、カチュアちゃん?
 そう問いかけようとした口はその当人の小さな手によって塞がれ、そのまままた壁に押し付けられた。突然の行動に疑問を訴えるショウの目に、カチュアは視線で先の通路を示す。
 そこには見失っていたチャイナドレスの後ろ姿と、できればショウ達はお目にかかりたくないバンダナの男がいた。
「――-ずいぶんこっぴどくヤられてくれたじゃねェかヨ」
 ねちっこい口調でフローレンスに詰め寄っているのは、ネェル・アーガマのメカニックチーフを務めるニードルである。整備の腕は間違いなく優れているのだが、粘着質な性格が災いしてかあまりパイロット達から信用されていない。
 ショウもニードルを快く思っていないうちのひとりだ。フローレンスににじり寄っていく彼の姿に嫌な物を感じて、カチュアに囁く。
「ねえ、止めた方がいいんじゃ……」
「ううん、これはチャンスよ」
 ショウの目の前でカチュアは、にやり、と笑う。
「ニードルみたいなやつが相手だったらフローレンスも本性を見せるに違いないわ」
 もうカチュアの内部ではフローレンスは猫をかぶっているということに決定しているらしい。
 ニールとのやり取りで気が立っているのか普段の何倍も凄みのある口調に反論できず、ショウは口を噤んで見守ることにした。

「カチュアさんを助けるためには、致し方ありませんでしたから……」
「致し方ないであんな大怪我こさえられちゃたまんねえなァ」
 Dガンダムはベルティゴをかばって左腕を失い、さらに胴体まで切り裂かれていた。ニードルが言っているのはそのことであろう。
 あのときはビームライフルで狙える間合いではなかったし、判断が遅れていれば敵機のビームトマホークはカチュアのいたコクピットに突き立っていたはずだから、フローレンスの咄嗟の決断でカチュアが守られたのは確かであった。
 しかしそのためにDガンダムが負った損傷は、ニードルの手をひどく煩わせることになった。
「アンタのために特注であんなシステム積んでやってるんだぜェ? 面倒くせェ思いまでしてよォ……」
 にじりよっていたニードルとフローレンスの距離はすでに息がかかるほどになっている。
 男の中では小柄な方に入るニードルと女性にしては長身のフローレンスでは、目線の高さはほとんど変わらない。歯を剥き出しにして下卑た笑みを浮かべるニードルをじっと見据え、フローレンスは薄く紅を差した唇を開いた。
「私の未熟のいたすところです。ご容赦くだされば幸いですが……」
「ご容赦、ねェ……」
 ニードルは半歩下がって、フローレンスの全身を眺める。
 はっきりとボディラインが出てしまうチャイナドレスを普段からまとっているだけあって、フローレンスのスタイルはかなりのものだ。顔は小さく、ウエストはしっかりくびれ、きゅっと上がったヒップの下から伸びる足は長い。東洋人離れした体型だと言えた。そのくせ顔だけはくりくりした目とふっくらした頬のラインが子どもっぽい。
 世の男にとっては魅惑的な容貌である。そして少々変わった性格の持ち主であるニードルにとっても、それは変わらない。
「あンだけの手間かけさせといて、すいませんでしただけで済まそうってなァ、虫が良すぎるんじゃねェか?」
「……仰ってる意味がわかりかねます」
「だからよォ」
 再び距離を詰めるニードル。
「お前のために汗水垂らして働いてるオレ様に、労いがあってもいいんじゃねェか、ってことだよ」
「労い……?」
「ヒャヒャヒャ……わかんねェ程ウブなお嬢様じゃねェだろうがよ」
 ニードルの唇の端がさらに吊り上がる。
「メカニックのオレ様は、“アレ”も“ソレ”も知ってるんだぜェ?」
「………」
「うだうだ言わなけりゃ、黙っててやるからよォ……」
 節くれだったニードルの手がフローレンスの細腕を掴み上げる。そのまま壁に押し付け、拘束。先が割れていないのが不思議なほど長い舌が唇をひと舐めして、目の前の透き通るほど白い肌に伸びた。
 フローレンスは顔をそむけず、怯えた様子の欠片もない。
 その気丈な様子にニードルは、ヒャヒャヒャ、と喉を鳴らして、もう一度舌なめずりをする。
「覚悟は出来てるかァ? 悪いようには、しねェから――-」
「……“アレ”や“ソレ”を知ってらっしゃるのに……」
「――-あん?」
「……こんな愚かなことをなさるなんて」

「や、やっぱり止めなきゃ!」
 囁き声で叫ぶショウが、壁に拘束されたフローレンスを助けようと飛び出しかける。
 ショウ達に解っているのは、ニードルが何かフローレンスに喋りかけながら近づいていき、不意に彼女を壁に押さえつけ、あまつさえ下賎な行為に及ぼうとしている、それだけ――-細かいやり取りは聞こえていない――-だった。
 フローレンスをあんな爬虫人類の親戚のようなやつの好きにさせたくない。
 そんな風にショウが思うには十分な状況だった。
 未だに推移を見守るつもりだったカチュアが止める間もなく、ショウは駆け出していた。
 しかし、その直後。
「ゲェッ……!!」
 硬質な通路にカエルの潰されたような声が響いた。
 そして勢いよく躍り出たショウが目にしたのは、一瞬翻ったように見えたチャイナドレスの裾と、腹を抑えて崩れ落ちるニードルの醜態だった。
 何がどうなったのかわからず目をしばたかせるショウ。確かさっきまでは、ニードルがフローレンスに迫っていたはずだが……。
 しかし当のフローレンスはそんな彼の存在に気付いたらしく、いつもの柔和な笑みを浮かべて、
「あら、ショウさん。申し訳ありませんが、ニードルさんが具合を悪くされたようなんです。船医さんを呼んで来て下さいますか?」
 と平然とのたまってみせた。
 さらに呆然として返事を口に出せないショウに念を押すように「お願いしますね?」と言い残して、相変わらず優雅な足取りで去っていく。
 フローレンスが背を向けたのを見計らって出てきたカチュアが、すっかり毒気を抜かれた様子でショウに尋ねる。
「ねえ、ショウ……何がどうなったの?」
「いや、僕にも何が何だか……」
 ぽかんとするしかないふたりの前には、怪しげに痙攣しているニードルの姿だけがあった。
 いいから、医者呼んでやれよ。

「それじゃ、お疲れ様」
「うん……」
 自室の前でカチュアに別れを告げて、だらりと背中を丸めたショウは気だるげにドアロックを解除する。
 ニードルを医務室送りにした後フローレンスを見失い、そして言い出しっぺのカチュアがすっかりやる気をなくしてしまった。突然の事態の混乱に最初に抱いていた疑問が吹っ飛んでしまったらしい。
 元々乗り気でなかったショウはカチュアが落ち着いたのを幸いに追跡劇をお開きとして、部屋に戻るように促したのだった。
 そうしてようやく解放されたショウは、疲れた足取りで自室に入った。その脇からかけられる、聞きなれた声。
「おかえり」
「あ……ただいま、ユーリィ」
 数十分前にカチュアが腰掛けて熱弁を振るっていた席についているのは、ショウのルームメイト――-ユリウス・フォン・ギュンターであった。
 ショウよりふたつばかり年上なだけの少年だが、その頭脳は天才的でGジェネレーション隊の開発部門で指導的な立場にある。一方でモビルスーツ戦術においてもまさに天才であり、ショウ達の部隊長と小隊長とを兼任している。
 カチュアが来たときには艦長との相談でいなかったが、どうやらそれが終わったようだ。
「ユーリィもおかえり」
「あぁ。 ……どこに行っていたんだ? 君のことだから、戦闘の疲れで寝こけていると思っていたが」
 顔は机上のコンピュータ端末に向けたまま、横目でショウを窺ってくる。まるでショウがいつも寝ているような言い草だが、実際体力的に劣るショウにとってパイロットという業務はなかなかの重荷である。部屋に戻って、着替える余力もなく制服のままベッドに倒れこむこともしばしばだった。
 今日はカチュアが来訪したためにそれどころではなかったのだが、その理由が理由であったのでユリウスに話すのは躊躇われた。
「うん……ちょっとね」
「ふん? まぁ、君がどこで何をしていようと知ったことじゃないけどね」
「………」
 だったら聞くなよ、という言葉を飲み込んで、ショウは自分のデスクにつく。
 ユリウスはこういうやつなのだ。いちいち気にしていられない。
 かれこれ数週間ルームメイトをやっているショウは、そのことに気付いている。
「……でもひとつ言っておこう」
 たっぷり10分ほど時間を置いて、ショウがうとうとし始めた頃にユリウスはまた口を開いた。
 ショウは疲れと眠気で重い頭をユリウスの方へ向ける。
「何?」
「仲がいいのは結構だが、ああいう行為は黙認できないな」
 固有名詞がひとつも出てこないユリウスの言葉を寝惚けた頭が何度も反芻する。
 しばし経ってからその意味するところに思い当たったショウは、眠気も吹っ飛んだかのように目を丸くした。
「ユ、ユーリィ、それって」
「安心してくれ。別に仲がいいのに文句を言っているわけじゃない。問題は何をしていたか、だ」
「いや、その、あの、違うんだ」
「さぁ、聞かせてもらおうか。そんなに慌てる君は、一体誰と何をしていたんだ?」
「あれはカチュアちゃんが言い出したことで……え?」
 ショウは目の前の倣岸な笑みを、さっきとは違う意味で目を丸くして覗き込む。
「ユーリィ?」
「やっぱりカチュアか……それで? 君とカチュアは、何をしていたんだ?」
 ユリウスはやおら立ち上がりショウの前まで来ると、被疑者を尋問する刑事のようにデスクに両手をついた。
「ユーリィ、君、知ってたんじゃ」
「あぁ、知っていたさ。僕が戻ったときに君がいなかった――-つまりどこかへ行ってしまっていたこと、ポットを使った形跡があった――-つまり僕のいない間に君がこの部屋で誰かに茶を振舞ったこと、それから僕の質問をはぐらかした――-つまり僕に知られたくないようなことをしていたこと。僕はこれだけを知っていた」
「それだけで……」
「さあ、ショウ、話してくれるな? 君は僕の知らないところでどんな悪いことをしてきたんだ?」
 まんまとユリウスの誘いに乗ってしまったと気付いてももう遅い。
 ユリウスの静かな怒りの篭った紅い瞳に見下ろされ、ショウは観念した。

「まったく……カチュアもしょうがない子だ」
 ショウの話を黙って聞いていたユリウスは、開口一番そんな風に言った。
 カチュアとはみっつかよっつしか違わないはずなのだが、普段から大人に混ざって仕事をしているユリウスが言うと妙な説得力があった。
「女には何がしかの秘密がある、というのは否定しないが……」
「……そうなの?」
「そういうものさ。君もいずれ思い知る」
「……ユーリィは、思い知らされるようなことがあったの?」
「っ……君の知ったことじゃないだろう」
 何かをごまかすように咳払いをして、ユリウスは口をへの字に曲げているショウの顎に手を添える。つい、と上を向かせた。
「それに、君も君だ、ショウ」
「でも――-」
「軍隊にはデモもストも許されない」
「そうじゃなくって……」
「さっきも言ったが、僕は君がどこで何をしていようと、どんな目に遭っていようと知ったことじゃない。だが、同室の君にそういうことをされると、隊長としての沽券に関わるんだ」
 ショウの眉が下がる。鼻先が触れ合うほどの距離で強く詰られ、ショウはすっかり挫けてしまった。
 顎に触れていた手がそのままショウの頬をなぞり――-ふっくらした耳たぶを摘み上げた。
「いたたたたたた!」
「そもそも君は体力がないんだから、戦闘が終わったら素直に寝ていればいいんだ! いざというときに実力を出せないで困るのは君だけじゃない、小隊長の僕もなんだぞ!」
「み、耳、耳痛いってばユーリィ!」
「それを何だ、君は、フローレンスの本性? そんなくだらないことで、時間を無駄にするんじゃない」
「わか、わかったから、耳!」
 喚きまくるショウを無視してユリウスは耳を引っ張り上げる。千切られてはたまらないショウがそれに釣られて立ち上がる。
 ユリウスはそのまま耳を引っ張って、ショウをベッドサイドまで引き寄せた。
「君に聞こう。今、君がしなければならないことは何だ?」
「休む、休むから耳離してよぉ!」
「よし」
 ようやく解放されたショウはそのままベッドに腰掛け、つい今までユリウスが拘束していた耳をしきりにさすっている。余程痛かったのか、つぶらな瞳がうっすらと潤んでいた。その上に小声で「ユーリィの馬鹿……」とまで呟いている。
 そんなショウの頭上で、大きな溜め息。
「……言い過ぎたよ、ショウ」
 もう一度ユリウスの指がショウの耳を捉える。しかし今度はいたわるような、優しい手つきだ。
「ゆっくり眠ってくれ。また次の任務が待っている」
「……うん……」
「よし」
 ユリウスは軽くショウの頭に手を乗せ、撫でるようにしてやった。心地よい感触に、泣き顔を引っ込めるショウ。
 満足したように頷いて、ユリウスはデスクに戻っていった。
 その背中を見つめながら、ショウは布団をかぶって横になる。
「ユーリィ」
「何だ?」
「……ごめんね、心配かけて」
「……僕は隊長として、小隊長として言っただけだ。しっかり働いてくれれば、文句はないさ」
「うん。おやすみ」
「おやすみ、ショウ」
 戦闘とフローレンス追跡のせいだろう。ショウは目を閉じるとすぐに深い眠りに落ちていった。

 翌日。
 ショウはユリウスとカチュアと一緒に朝食を摂ることになった。
 ネェル・アーガマを初めとしたGジェネレーション隊に所属する戦艦の食堂には最先端技術で作られた自動調理器があり――-これも僕が開発したものだ、とユリウスは胸を張っていた――-なかなかに新鮮な味わいの食事が提供されている。
 今は三人揃ってバタートーストとスクランブルエッグ、それにコーヒーといったベーシックな朝食を黙々と口に運んでいる。
 普段なら食事の間も騒々しいくらいに喋るカチュアが静かなのは、朝食の前にユリウスからのお小言をもらったからである。
 「そもそも君は隊員としての自覚が……」などと朝っぱらから理屈っぽく小一時間も責められたカチュアは、トーストの上にエッグを乗せて口の中に押し込むとミルクと砂糖をたっぷり入れたコーヒーで流し込んで、さっさと席を立って行ってしまった。
 その姿が食堂から消えるのを待って、ショウは食事の手を休めた。
「言いすぎだよ、ユーリィ」
「何がだ?」
「カチュアちゃんのこと」
「……彼女には、あれくらい言ってもまだ足りないくらいだよ。本当だったら、丸一日かけてGジェネレーション隊員のなんたるかを教えてやりたいくらいさ」
 平然とそう言って、ユリウスはブラックのコーヒーを口に運ぶ。
 ショウも同様にコーヒーを一口飲んで――-こちらは砂糖を多めに入れた甘口だが――-でもさ、と言い返す。
「カチュアちゃんだって悪気があってやってるわけじゃないんだし」
「悪気があってやってたなら説教程度じゃ済まさない」
「う……で、でもユーリィだって気になるでしょ? フローレンスさんが本当に、そんな風なこと言ってたら」
「言っていたら、な」
 ユリウスの口ぶりはまるで、そんなことはありえない、と確信しているかのようだ。
「君達は知らないかもしれないが、彼女は財界の要人の娘だったんだぞ? そういう立場の人間というのは、知恵や教養はもちろんのことだが、何よりも礼儀を大切に育てられるんだ。そんなことは、普段の彼女を見ていればわかることだろう」
「それは、僕だってそう思うけど……」
 カチュアは聞いたと言っていた。ユリウスが目の敵にするくらいカチュアは何かと問題を起こす少女だが、間違っても嘘をつくタイプではない。ただ、ちょっとばかり強引でほんの少し思い込みが激しいだけだ。
 大抵最初の被害者になるショウはそれをよく知っているから――-だからこそ最初の被害者になってしまうのだが――-ユリウスの言葉にはいそうですかと納得するわけにはいかなかった。
「だったら、カチュアちゃんが嘘ついてたって言うの?」
「そうは言っていない。嘘じゃなければ真実だとは限らない、ということさ」
「……どういうこと?」
「勘違い、思い違い、誤解、そういうものはいくらでも生まれるものだ」
 仕方がない、という風にユリウスは肩を竦める。
「ニュータイプというのはそれがないと聞く……君達は――-」
「僕は、ニュータイプなんかじゃ、ないよ」
 困ったように揺れていたショウの瞳が不意に鋭くなり、一直線にユリウスを刺す。
 はっきりとしたショウの答えにユリウスは一瞬面食らっていたようだが、すぐに微笑を浮かべて、軽く首肯した。
「そうだな……君はあの結末を見届けて来たんだものな。すまなかった」
「気にしないで」
「……いずれにせよ、だ。カチュアが思い違いをしている可能性というのは、捨てきれないと思うぞ」
「うーん……」
 今しがたの毅然とした表情はどこへやら、ショウは再び困ったように眉根を寄せた。
 なにぶんショウ本人がそれを聞いたわけではないので、そう言われると言い返せないのだ。
 黙ってしまったショウにユリウスは苦笑して、慰めるように言う。
「一日もすればカチュアも忘れているさ」
「そうかな……」
「だから、君も忘れた方がいいぞ。もうひとつ戦闘があるんだ。仲間に疑念を持ったままじゃ、戦えないだろう」
「そう……だね」
 あのフローレンスさんだ、という信頼が根底にあるショウは、ユリウスの言葉を受け入れることにした。カチュアのそそっかしさを知っているのも、その一因にあっただろう。
 次の作戦までには、何もかもがいつも通りになっているさ……そう思って。

 しかしながら、ユリウスとショウの予想は外れていたようだった。
 あれから三日が経ったが、カチュアはひとり孤独な調査を続けていたのだ。
 暇な時間のほとんどを使ってフローレンスを付け回し、いつ本性が露わになるかとひたすら待ち続けた。しかし、冴えない部下のコルトに言い寄られても、操舵士のパティ・ソープと口論になっても、フローレンスはあのときカチュアが聞いたような乱暴な言葉を発することはなかった。
 もうカチュアが確認していない場面は私室とコクピット内、それにトイレとシャワーくらいのものになっていたにも関わらず、である。
 流石のカチュアもあれは聞き違いだったのかもしれない、と思い始めていた。
 それでも最後の足掻きで、カチュアは格納庫にやって来ていた。先日のニードルとの悶着、そして自身の体験から、Dガンダムのコクピットに何かあると踏んでのことだ。
 周囲に整備員達がいないはずの――-特にあの気色の悪いニードルがいないはずの――-時間帯を狙った甲斐があり、格納庫には誰の姿も見えなかった。
「完璧っ☆」
 何気なく呟いた言葉が予想外に反響して思わず口許を押さえながらも、カチュアは居並ぶモビルスーツの前を通り過ぎてDガンダムにたどり着いた。
 Dガンダム――-正式名称はダリー・ガンダム・サード。宇宙世紀のジャンク屋が趣味で組み上げたモビルスーツを地球連邦の開発チームが改修したという変わった出自を持つ機体で、身軽で細身のラインは作業用モビルスーツだった頃の軽装を思わせる。また現状ではビームライフルとライフル内蔵シールドを装備しているが、前腕部には作業機時代の自衛武装だった「ナックルクラッシャー」の後継武装「ブラストナックル」も設置されている。格闘戦にも対応できる機体と言えた。
 外観だけでは特に変わった様子もなく、ただのモビルスーツに見える。
「でも、それだけじゃないはずよ……」
 ひとりごちて、カチュアはコクピットへと続くリフトに乗り込んだ。彼女の可愛らしい指が昇降スイッチを押し、リフトが低い音を立てて上昇を始めた、そのとき。
「ハァ〜、ったく、やっと終わったぜェ」
 聞き覚えのある――-しかしなるべく聞きたくない――-声が格納庫の高い天井に響いて、カチュアは慌てて周囲を見渡した。
「おいおい、誰もいねェじゃねェか……ハクジョーもんだな、アイツら」
 見つけた。
 ニードルがXディバイダーから降りてくるところだった。わんわんと格納庫中に響く声から察するに、他の整備員たちに置いていかれたらしい。
 しかしカチュアにとってそんなことはどうでもよかった。Dガンダムを調べようとしているところをニードルに見つかれば、どんな目に遭わされるかわからない。なんだかんだ言ってニードルは自分の整備にプライドを持っているから、他人にいじられるのを極端に嫌うのだ。
 加えて今カチュアがいるのはコクピットへと上がるリフトの上で、すでに数m――-Dガンダムの太腿ほどの高さに上がったそこからは、おいそれと逃げることは出来ない。万事休すだ。
「……アン? そこのリフトに乗ってるのは誰だァ?」
 見つかった!
 カチュアがどこにも逃げられずにおろおろしているうちに、ニードルはずんずんと迫って来る。
「その機体はオレ様の担当だろうがよォ。勝手にいじるんじゃ――-うん?」
 どうしようもなくなってリフトの上に屈みこんでいたカチュアをニードルが凝視する。
 小柄な身体に特徴的な赤毛。
「テメェ……カチュアだな!?」
 自分の機体に触れようとしている者が誰かわかるや、ニードルはDガンダムが寄りかかる整備ベッドの足元に設置されたリフトの昇降スイッチに駆け寄る。
「人様の機体に何しようとしてやがるんだ、このガキ!」
 力任せに叩かれたスイッチに呼応して、リフトはコクピットの高さに達することなく下降を始めてしまった。
「きゃあっ!?」
「何がきゃあっだクソガキが! 早く降りてきやがれ!」
 ゆっくりとしたスピードで、しかし着実に床面が近づいていく。
 蛇のような目を思いきり見開いた、並びの悪い歯を、一際目立つ犬歯を剥き出しにしたニードルが待ち構えている床面が。
 もうすぐ自分はニードルに捕まってしまうだろう。そうしたら、いったいどうなってしまうのか。
 今格納庫には自分とニードル以外誰もいない。それはそうだ、カチュア自身が、自分しかいないはずの時間を選んだのだから。
 それはつまり、助けもないということ。
 恐怖に顔を歪めるカチュアの耳に、無情にもリフトが最下点に達する重低音が響いた。


「今回の僕達の任務はラー・カイラムを援護し、その突入を助けることにあります」
 ユリウスの晴朗な声が通信機を通して全機のコクピットに届く。
 この時代においての最後の作戦を控え、ネェル・アーガマの格納庫は緩やかな緊張に包まれている。
「タイムリミットは問題ありませんが、敵の戦力は膨大です。勝手な行動を取らないように」
 簡素な指示だったが、それで充分だった。この部隊での戦い方については、前回の作戦で誰もが調子を掴んでいたからである。
 ショウも同様で、彼の場合は特にユリウスもカチュアも気心が知れているために、かなりリラックスしてXディバイダーのシートにもたれていた。
「……さて」
 通信機から聞こえてくる声の調子が少し変わる。同年代に話すもの――-小隊内通信に切り替えたらしい。
「ショウ、カチュア、わかってると思うが今回の任務は敵機の捕獲にある。敵艦に攻撃を集中してくれ」
「わかってる」
 前回の戦いも同じ目的だったので、勝手はわかっている。ショウは間を置かずに返事をした。
 少し遅れて、
「……ねぇ、ユリウス」
 と蚊の鳴くような声。小隊内通信で、ショウでもユリウスでもないとすれば、意外だがカチュアということになる。
 ユリウスも同じように感じたのだろう、彼女に返した返事は少し動揺しているように聞こえた。
「どうした、カチュア」
「今回の作戦、フローレンスに付きたいんだけど」
「……どうして君は、そう勝手なことを――-まさか、まだフローレンスの正体をどうこう言うんじゃないだろうね」
 カチュアとフローレンスを繋ぐ線といえば、ショウもその件しか思い浮かばない。
 ショウは今の今まで忘れていたが、まさかカチュアはまだ疑っているのか。
 一瞬そんな風に思ったが、そのすぐあとの言葉がそれを否定した。
「ち、違うよ! あれは、私の勘違いだったってわかったってば」
「ならいいが……ちょっと待ってくれ。フローレンスに話してみる」
 通信機の向こうから、「あぁ、うん……そうですか、わかりました」などという問答が続くこと一分弱。
「構わないそうだが……迷惑はかけないでくれよ」
 そう言うユリウスの口調は、心配この上ないといった様子だ。
 しかし答えるカチュアの返事はそんな心配などどこ吹く風、
「わかってるよ☆」
 とウィンク付きの笑顔が目に浮かぶような一転して明るい調子だ。
「……どう思う?」
「……元に戻った……のかなぁ……」
 秘匿回線で問い掛けてきたユリウスに、ショウはそんな風な答えしか返すことが出来なかった。

「クソガキが……どうしてやろうか、あァ!?」
 背中をリフトの手すりに押し付けたカチュアに、怒りも露わなニードルが迫る。
 無意識に胸や下腹部をかばってしまうのは女の本能か、それともパティ・ソープから聞いた話を心のどこかで覚えているからか?
『ニードルのクソ野郎はね、アタイらの時代でも最低最悪のことをやってたんだよ』
 そう前置きしてパティが語ったのは、カチュアには想像もつかないほど――-そして想像したくないほど汚らわしい、吐き気を催すほどの話だった。誘拐、ヤク漬け、陵辱、堕胎、売買、解体……なるべくならお目にかかりたくない単語ばかりが並んでいたとしか覚えていられなかった。
 普段なら自分の知らないちょっぴりイケない世界を知っているお姉さんだと思えるパティが、本当に自分の知らないどす黒い世界を知っているのだと思い知らされたときでもあった。
 社会と時間から切り離されたGジェネレーション隊でそんな話のようなことが出来るはずはないのだが、そんなことを冷静に考えている余裕はカチュアにはない。
「やめて! 来ないで、変態!」
「変態だァ?」
 ニードルの片足がリフトにかかる。もう片足が乗ってくる。ひょろりと長いニードルの身体が、恐ろしい化け物のように見える。
 今やカチュアは完全に逃げ場を失っていた。
「そんなこと言うお嬢ちゃんは、お仕置きしてやらなきゃなァ……? ヒャヒャヒャ!」
 勝ち誇ったようなニードルの笑いが高らかに響く。
 もうダメだ。
 私はニードルにめちゃめちゃのぐちゃぐちゃにされちゃって、もうショウ達にも会えなくなっちゃうんだ。
 そう考えたら、不意に涙が溢れてきた。視界が歪んで、どこに何があるのかも判然としなくなる。
 それでもかすかな足音でニードルが近づいてくるのがわかってしまった。
 最後の抵抗に、まだ細くて短い腕を振り回すカチュア。
「……やだ……やだよぉ……!」
「ヒャヒャヒャ! さぁ、こっちにきやが――-」
 今にもカチュアの細腕を掴もうとしていたニードルの言葉が、不意に止まった。
 続いて、何か重くて柔らかいものが床に落ちる音。
 それから――-
「ゲス野郎が」
 ――-聞いたことのある乱暴な口調。パティのものに似ているが、違う。普段はもっと別の印象で響いてくる声。
「っと……カチュアさん、大丈夫ですか?」
 優しい口調。そして自分を「さん」付けで呼ぶ、この声は。
「フロぉ……レンス……?」
 果たしてその言葉どおり、ニードルに代わってカチュアに手を差し伸べていたのは、フローレンス・キリシマその人だった。いつものように優しげな笑みを浮かべて、少し首を傾げている。
 その足元にはうつ伏せに倒れたニードルがいて、その後頭部をフローレンスは踵で押さえていた。
「危ないところでしたわね。でも、もう安心ですわ」
「ど……して、ここに……」
「……カチュアさん、最近私のことをつけていらしたでしょう? 今日は姿が見えないから不思議に思って、探していたんです」
 まさか。
 フローレンス本人には全部ばれていたのか。
 ニードルに対する恐怖はあっさり吹っ飛び、彼女への驚きがカチュアを占める。
「気付いてた……の?」
「何事もなければ気付かない振りを続けましたけど……こうなってはそうも参りませんでした」
 フローレンスのしなやかな脚に力が篭る。ニードルの顔の方で鈍い嫌な音がした気がした。
「初めから私が注意していれば、こんなことにはなりませんでしたのに」
「フローレンス……」
「本当に、危ないところでしたね。こんな危ない目にまであって……どうして私をつけていたんですか?」
 いきなり核心をついてくるフローレンス。
 カチュアはしばらく返事に窮していたが、やがて、ゆっくりと口を開いた。
「フローレンスが……すごく、ガラの悪い口のきき方をしてたの、どうしてかな、って」
 そう言った途端、フローレンスは額を押さえて天を仰いだ。
「あっちゃー……聞かれてたかぁ」
 そんなことまで言う。
 仕草も言葉も、お嬢様然としたフローレンスには似合わないはずのものだ。
 しかし今のフローレンスの様子は何故か、とても自然に見える。
 そのことが、カチュアにひとつの直観を抱かせた。
「フローレンス……ひょっとして、そっちが素?」
 カチュアがおずおずと指摘すると、フローレンスは照れ笑いを――-親しみやすい、いたって庶民的な照れ笑いを浮かべて、頷いた。
「バレちゃったら、しょうがない。これがアタイの自然体さ」
 アタイ。そんな蓮っ葉なことを言うのはパティだけだと思っていた。
 そんなカチュアの驚きを余所に、フローレンスは続ける。
「でもこれじゃあ引かれちゃうと思って、ずうっと隠し通してきたんだけどね。メカマンには戦闘記録を見られちゃうから気付かれてたけど、他に知ってたのはエターナだけ」
「それじゃ、ニードルの言ってた“アレ”って……」
「それは、これだけじゃないんだな、これが」
 肩をそびやかして、フローレンスがリフトの昇降スイッチを押す。
 上昇を始めたリフトの上で、フローレンスの独白は続く。
「お上品な言葉遣いは、ここに来る前からエターナに習ってたんだけどね。朝から晩まで使い続けるのは初めてだったから、正直疲れたよ。特にここ何日かは――-」
 と、カチュアを一瞥して、
「誰かさんがずうっとひっついててくれるもんだから、本当に片時も気が抜けやしない」
 カチュアは恐縮することしきりである。
 そんな様子を一笑に付して、フローレンスはまた続ける。
「アタイはね、確かに富豪の娘だったけど、家にいたことはあんまりないんだ。ほとんどずっと家出しててさ。それで、こんな風になっちまったけど、おかげで身についたものもある」
 リフトがコクピットの高さに到達した。
 フローレンスはハッチ横の端末を操作して、Dガンダムのコクピットハッチを開放した。
「見てみな。それが、ニードルがネタにしようとしてたものだよ」
 片手で中を示すフローレンス。それに従って覗いたカチュアが見たのは――-
「これって……モビルトーレスシステム!?」
「ご名答。家出中にだいぶ喧嘩慣れしてね。スティックだのペダルだの使って動かすより、よっぽど性に合ってるんだ」
 フローレンスは誇らしさと恥ずかしさが半々の様子だ。
 強さは確かに誇れるものだが、「お嬢様」が喧嘩なんて、という思いもあるのだろう。
「ニードルのやつ、アタイがこれ使えるくらい強いの知ってて絡んで来るんだから……本当に、救いようがないよ。強請りのネタになるとでも思ってんだろうけどさ」
 足元にぶっ倒れている男を見下ろしながら、フローレンスが心底呆れて言う。
 それにはカチュアもまったく同意だった。
「さて、カチュア……」
 格納庫に備え付けの通信機から医務室に担架を要請したフローレンスは、待つ間にそう切り出した。
「あんたには、お願いがあるんだ」
「お願い?」
「今日、ここで見たことは、他の奴には黙っててくれないか」
 フローレンスの目は真剣だった。なるべく誰にも知られたくないのだろう。そうでなければ、朝から晩までつけ回していた自分にも見せないくらいに隠し続けはしない。
 そう思ったカチュアは、あることを考えながら頷いた。
「もちろん、いいわ」
「そうか。助かるよ、ほんとに」
「でも、条件」
 カチュアの言葉に、一旦は安堵したフローレンスが身構える。
 しかしカチュアは彼女が予想していたことなどまったく口にしなかった。
 ただ、とびっきりの笑顔と一緒に、こんな風に言ったのだ。
「フローレンスの昔の話、私にいっぱいいっぱい聞かせてね!」

「ユリウス・フォン・ギュンター、メリクリウス・シュイヴァン、出撃する!」
「ショウ、Xディバイダー、行きます!」
「カチュア・リィス、ベルティゴでいっきま〜す☆」
 ネェル・アーガマのメインカタパルトから立て続けに3機が発進した。
 その最後尾、両腕を広げたベルティゴの姿が前の2機から離れていく。その先には、フローレンスの率いる小隊があるはずだ。
「何かあったのかな、カチュアちゃん」
「どうだか。まあ、それで連係が取れるなら問題ないだろう」
 ユリウスの返事は素っ気無いが、ショウ達の立場からそれ以上を言うことが出来ないのも確かだった。
 ショウは遠ざかっていくベルティゴの後ろ姿を眺めながら、釈然としないものを感じていた。
 具体的に何があったかは、さっぱりわからない。ただカチュアがフローレンスに以前以上の好意を持っているらしい、ということがわかるだけだ。多分、この数日にフローレンスとカチュアの間に何かがあった。それは直観として受け取れた。
 そしてきっと、その「何か」の原因になったのは、自分も巻き込まれたはずのフローレンスの本性とやらだと思えた。
 それが自分の知らないところで決着したらしいのに納得いかないのだ、と気付いた。まったく巻き込まれ損だ。
「けど、まぁ……」
 カチュアちゃんがあんなに楽しそうなんだから、それでいいか。
 そんな風に思って、ショウは気持ちを切り替えた。
「ロンド・ベル隊、接敵」
 オペレータを務めるフェイ・シーファンの静かな声が戦闘の始まりを告げる。
「行くぞ、ショウ」
「うん!」
 元気良く答え、心の中によぎる一抹の寂しさを押し殺す。
 Xディバイダーが背部のバーニアをふかし、それを振り切るように加速した。



 だって、仕方ないじゃないか。
 女の子には何かしら秘密がある。
 どうやらそれは、本当らしいのだから。