【半熟兵士と踊る空】692氏



 少し経つと、スピーカーから涼やかで聞き心地のよい声が流れてきた。
 「艦内の皆様、艦長のエターナ・フレイルです。本艦は後五分ほどで作戦行動に入ります。作戦宙域では、既に駐留軍とデスアーミーの間で激しい戦闘が行われているとのことです。我々の任務は駐留軍と協力し、デスアーミーを全機撃破、あるいは撃退することです」
 そこで、声が柔らかくなる。
 「本艦は軍属ではありませんので、任務のために死ねとは言いません。給料分の仕事をこなし、一人も欠けることなく帰還されますよう、ブリッジよりお祈りいたします」
 通信回線を通して、いくつもの拍手と口笛の音が溢れ出した。エルンストは苦笑する。
 「相変わらず大人気だな艦長殿……」
 「では、続いてイワン・イワノフ少佐より訓示を頂きます」
 どこかうんざりしたようなネリィのアナウンス。先ほどまで鳴っていた拍手がぴたりと止んだ。代わりに舌打ちや低いブーイングが生まれる。
 「正直な奴等……」
 「えー、艦内の諸君、全地球連合宇宙軍第三艦隊所属、督戦士官のイワン・イワノフ少佐である」
 尊大かつ勿体ぶった、それでいて威厳を感じさせない声。督戦士官のイワン・イワノフ少佐のものだ。

 この艦……宇宙戦艦グランシャリオは、一民間企業Gジェネレーションに所属している。
 数年前まではMSの部品製造等を請け負う小会社に過ぎなかったこの企業は、新社長ブランド・ブリーズが就任して以降急激に勢力を伸ばし、現在では業界一、二を争う技術力と財力を保有しているとさえ言われている。
 その力に目をつけた地球連合政府は、デスアーミーの発生以降彼らと契約を結び、様々な特権を与えると同時に、軍事的な協力を約束させたのである。
 こうして、Gジェネレーション所属の私設軍隊Gジェネレーションズは、軍からの要請によってデスアーミー掃討戦に参加することとなったのである。グランシャリオに督戦士官という名目でイワン少佐が搭乗しているのには、そういった背景がある。
 スピーカーから、イワンの勿体ぶった咳払いと何か紙切れを取り出すような音が聞こえてきた。
 「あ〜、諸君。知っての通り、諸君らが所属するGジェネレーションは、地球連合軍総司令ガルン・ルーファス将軍のご厚意により、我が軍の傘下に加えられている。栄光ある地球連合軍の名に恥じない戦いをするように。敵は悪魔のデスアーミーだ。そんな者どもに我等の地球を破壊される訳にはいかん。諸君らには例え刺し違えてでも敵を倒す義務があるのだ。各員決死の覚悟で奮闘するように」
 明らかにただ文面を読み上げているだけだと分かる、棒読みで気合の足りない演説。
 「……ルセェんだよクソジジイが……」
 回線を通して、誰かの呟きが聞こえてくる。苛立ちを隠そうともしていない、怒りをはらんだ低い声音。第一小隊員のラナロウ・シェイドだ。髪を掻き毟るような音もわずかに混じっている。
 「落ち着きなさいラナロウ。戦闘前に心を乱しては命に関わりますよ」
 「分かってるよ隊長……でもなぁ、あの声聞くとイライラすんだよチクショウが!」
 第一小隊隊長ニキ・テイラーの制止も空しく、ラナロウの苛立ちは止まらない。髪を掻き毟る音と、未だに終わらないイワンの平坦な演説がオーバーラップする。
 こちらからブリッジに対しては回線が開いていないので、ラナロウの罵倒などは、あちらには届いていない。
 「ま、気持ちは分かるがね」
 ポツリとエルンストが呟いたとき、唐突に一枚の画像つきプライベートメールが届いた。「カチュアより愛を込めて」。開くと散々に落書きされたイワンの顔写真画像が出てきた。見事な不意打ち。
 エルンストが噴出すのとほぼ同時、一転して大爆笑の渦が回線を満たす。
 「……で、あるからして……む、おい艦長、何を笑ってるんだ?」
 「い、いえ、何でも……」
 スピーカーから流れてくるその声を聞くに、どうやらカチュアは艦内のほとんどの人間に同じメールを送りつけたらしい。イワンは気がついていないらしく、しつこくエターナを問い詰めていた。
 「最高だよカチュア」
 まだ笑いが収まりきっていない声で、ジュナスが言う。追従するようにいくつかの口笛が響いた。
 「督戦士官殿、ありがた〜いご高説はそこら辺にしといて頂けます? ……皆、そろそろ緊張しな。作戦宙域が近いよ」
 ケイ・ニムロッドの、内容に比べれば軽い口調の声。ようやく仕事をする気になったらしい。イワンは演説を途中で止めることに少し難色を示しながらも、結局のところ引き下がった。
 「グランシャリオはこの場に固定。各小隊は第一、第二、第三小隊の順で順次発進してください。戦闘員の皆さん一人一人が、冥府の神に嫌われていることを願います」
 エターナの声が、深く静かに、物語の序文を謳いあげるように響き渡った。
 「Gジェネレーションズ第一部隊、グランシャリオ隊……現時刻を持って、作戦を開始いたします」
 「第一小隊、了解いたしました。必ず勝利の報告を持って全員帰還します」
 「第二小隊も了解だ。お望みとあらば化け物共を一匹残らずミンチにしてやる」
 「第三小隊、右に同じ。ま……死なない範囲でせいぜい気張らせてもらおうかね」
 各隊の小隊長たちが応えるのに合わせて、艦内が目まぐるしく動き出す。
 「それじゃ、第一小隊から出撃を開始してよ。大丈夫だとは思うけど、急ぎすぎて機体同士でガッツンコなんて間抜けな真似はよしとくれよ」
 「んなミスを俺がするとでも思ってんのか? ナメんじゃねぇよ。今日の一番乗りも第一小隊のラナロウ・シェイドがもらうぜ!」
 ケイのアナウンスと、ラナロウの上機嫌な声。MS用カタパルトに直結したエレベーターが起動し、ラナロウ搭乗のギャプランがデッキから姿を消す。数秒後、
 「ヒャッホーッゥ!」
 というノリに乗った叫び声が聞こえてきて、エルンストは苦笑した。
 「相変わらず戦闘になると元気になるんだな、あいつは……」
 続いてエイブラムのドーベンウルフ、ブラッドのザクL、そしてマークのスーパーガンダムが次々と出撃した。続けてニキ搭乗のガンダムMKMもエレベーターまで移動したが、カタパルトに上がる直前にニキがエルフリーデに通信をいれた。
 「エルフリーデ、何をしているのです? 早くカタパルトに上がりなさい」
 「精神統一中だ。邪魔をするな」
 短く、素っ気無い返答。立場を無視した言葉だったが、ニキは特に怒りを見せなかった。
 「分かりました。では出撃のタイミングはそちらに任せます。第一小隊隊長ニキ・テイラー、ガンダムMKM、出ます!」
 エルフリーデを除く第一小隊員が全員出撃した後、次に三基あるエレベーターに向かって移動し始めたのは、第二小隊隊長のジェシカ機だった。
 「さて、第二小隊もすぐに出るぞ。今回も泥人形どもを一匹残らず塵にしてやる」
 「……見る度に思うことだけどさ、あれ程隊長に似合う機体もなかなかないよな」
 「そうだね。でもそういうのは回線開きっぱなしで言うことじゃないと思うんだ」
 気合満タンで宣言するジェシカの影で、囁きあうのはジュナスとシェルドだ。二人の視線は、スクリーンに映ったミンチ・ドリル……ジェシカ機イーゲルの右腕武装に向けられているらしい。
 そのイーゲルの横をすり抜けて、精神統一を終えたらしいエルフリーデ機が歩み出てくる。
 「……フン、相変わらずふざけた機体だ」
 ジェシカが毒づく。
 「侮辱するつもりか? ふざけているのはキサマの機体の方だろう」
 言い返すエルフリーデの声は、冷静な口調ながらも隠し切れない怒気をはらんでいる。
 答えるように、ジェシカのイーゲルが、エレベーターの前でエルフリーデ機に向き直る。ミンチ・ドリルが持ち上げられた。
 「ほう……面白い。子鬼どもの前にキサマをグシャグシャにしてやろうか?」
 「出来るものならやってみろ。その無粋な機体もろとも真っ二つにしてやる」
 エルフリーデ機もまた、自機の腰部につけられている武器に手をかける。一触即発。
 「でも、どっちも面白い機体であることに変わりはないよな」
 「聞こえてるってばジュナス」
 全く慌てていないジュナスとシェルドの機体は、イーゲルとエルフリーデ機……ナイトガンダムの対峙をのん気に傍観している。
 さながら金棒を持った大鬼のごときイーゲルと、騎士を模したナイトガンダムのにらみ合いに割って入ったのは、全身を金色に塗りたくった機体だった。
 「ハッハーッ、美女二人の戦いに割って入るイケメンな俺」
 「邪魔だ」
 ジェシカとエルフリーデの冷たい声が重なる。その真ん中で、サエンの機体である百式は器用に肩を竦めてみせた。
 「そんなつれないこと言わないでよ隊長もエルフィーも」
 「黙れ。今日こそはこいつのスカした面を潰してやらんことにはアタシの気が収まらん」
 「癪に触るが同意だ。今日こそそいつの脳に品性という言葉を刻んでやる。ついでに変な相性で呼ぶな」
 「まあまあ。んじゃさ、撃墜数で勝敗を決めるってのはどう? それなら公平じゃん」
 緊張を解かない二機の間で、百式が右手の人差し指を立てる。
 「相変わらず無駄に器用ですよねサエンさん……」
 ショウが呆れた。それに向けて百式が親指を立てる。イーゲルとナイトガンダムは黙って向き合っていたが、その内にブリッジから怒声が届いた。
 「どうでもいいですから早く発進してくださいまし! 今は戦闘中ですわよ!? ケイさんも黙ってないで注意なさい!」
 「えー、面白いんだけどなぁ。ま、いいや。ちゃっちゃと発進してよ二人とも。後ろがつかえてるからさ」
 ジェシカとエルフリーデはなおも沈黙していたが、やがて互いに親指を逆立て合うと、黙々と三基のエレベーターの両脇に立った。真ん中にはサエンの百式が陣取る。
 「何つーか、グランシャリオ隊イロモノ三人組勢ぞろいって感じだよな」
 「ジュナス、そろそろ怒られると思うよ」
 「第二小隊の全員、念のため言っておく」
 シェルドの警告が終わらない内に、ジェシカは声を低くして宣言した。
 「今回の戦闘で落とされたもの、撃墜数が一番低かった者にはアタシ自ら再教育を施してやるからそのつもりでいろ」
 「ゲェッ!?」
 ジュナスが潰れたカエルのような声を上げる。エルフリーデは無言。サエンだけが上機嫌で鼻歌を歌っていた。
 「いいねいいね、両手に花って感じで俺にピッタリだ」
 「口閉じなよサエン、舌噛むよ」
 「ヨッ、相変わらずいい声だねケイちゃん。今度ベッドで聞かせてうぎゃあ」
 台詞が終わる前に、ケイがエレベーターを起動させてサエンを射出した。ジェシカとエルフリーデも順次カタパルトに上る。
 「あーあ、また面倒なことになったなぁ……」
 「口は災いの元って訳でもないだろうけど」
 ため息混じりに機体を移動させたのは、ジュナスとシェルドだ。
 「よーし、こうなったら何としてでも撃墜数稼いでお仕置きを回避しないとな!」
 「ま、落とされないように頑張ろうよ」
 ジュナスのスターク・ジェガンとシェルドのジム・カスタム高機動型が揃ってエレベーターに立つ。
 「おーいショウ、早く来いよ」
 「ハ、ハイ」
 ショウの駆るガンダムNT1の動きがどこかぎこちない。後ろからノーランのゼク・ツヴァイが追いついた。
 「どうしたんだい坊や。そんな動きじゃ落とされちまうよ?」
 「あ……す、すいませんノーランさん。前の戦闘のこと思い出したら急に緊張してきちゃって」
 「あー……そういや、前回のお仕置き対象はあんただったっけね。大丈夫さ、あたしも出来るだけフォローするから、な?」
 「はい……」
 ショウの操縦は硬いままだったが、それでもとりあえず発進準備は完了し、第二小隊の三人組は揃って出撃していった。
 「やれやれ……じゃ、アタシも行こうかね。第三小隊の皆、しんがりはよろしく頼むよ」
 「了解」
 応じたエルンスト機に軽く敬礼し、ゼク・ツヴァイの姿がデッキから消える。

 「よーし、そんじゃ第三小隊もぼちぼち出撃するぞ。先頭はエリスとレイチェルとシス、カチュアとドクはその後ろ。俺も後方からついてく」
 「了解。行きましょう、レイチェル、シスちゃん」
 「うん、お姉ちゃん」
 「はい」
 エリスのリ・ガズィとレイチェルのサイコ・ドーガ、シスのブルーディスティニー一号機が動き出す。
 「ちょっと隊長! ワタシも先頭がいいんだけど!」
 エルンスト機のスクリーンに、カチュアの怒った顔のアップが映りこむ。エルンストは片手を振った
 「ダメダメ。んなことしたらお前勝手に先行してマークに追いつこうとするだろうが。だろ?」
 「う〜」
 カチュアが頬を膨らませている間に、エリスたちはさっさと出て行ったようだ。
 「ホラ、拗ねてないで行くぞ。ドクも準備いいか?」
 「お、おう」
 「トローい! ドクなんかほっといて早く出ようよ!」
 「な、何だとこの」
 「ホラ、騒いでる暇があったらさっさと出るぞ、ったく……」
 エルンストのEz8・HMCを中心に、カチュアのバギ・ドーガとドクのギラ・ドーガがエレベーターに並ぶ。
 「んじゃ、第三小隊も出るぜ。艦内の皆さん、お留守番はしっかり頼むよ」
 「ブリッジ了解。ま、帰ってきたときに三時のおやつが残ってることを祈っとくんだね」
 ケイが気楽に答えて、エレベーターが上昇し始める。数瞬後、エルンスト機のスクリーンにはどこまでも深い星の海が映っていた。静かで冷たい闇の中、ずっと遠くで激しい戦闘の光芒が煌いている。エルンストは目を細めた。
 「……あんなことがあっても、俺はまだこんなところにいる、か……また来ちまったよ、皆」
 エルンストはコックピット内の写真をゆっくり指で撫でた後、軽く息を吐いて前方を見据えた。カタパルトが起動し、加速によるGが全身を襲う。Ez8・HMCは戦火渦巻く宇宙にその身を躍らせた。
 周囲を見回すEZ8のすぐ近くに、カチュアのバギ・ドーガとドクのギラ・ドーガの機影が現れる。
 「二人とも、無事に出たか?」
 「おう」
 「当ったり前じゃん。それより隊長、敵はどこ?」
 うずうずしているようなカチュアの声に合わせて、バギ・ドーガのモノアイも目まぐるしく左右に動く。
 「この辺にはもういないみたいだな。一隊と二隊の連中が張り切ったんだろうさ」
 目の前に無数の機体の残骸が漂っているのを見て、エルンストが答える。
 「案外、俺らの仕事はもうないかもな」
 「えぇ〜!?」
 カチュアが不満の声を上げるのとほぼ同時に、少し離れた場所に浮いていた隕石の陰で何かが動いた。
 反射的ともいえる早さで、エルンストの手が動く。Ez−8が発射したビームライフルの光が、飛び出したデスアーミーの胴体を貫いた。
 逆方向に飛び出した二機は、既にカチュアの手で撃墜されていた。左はビームライフルで打ち抜かれ、右はビットによる多角攻撃を受けて沈んだ。
 「お見事……」
 エルンストは口笛を吹いた。
 バッタのような特殊な形をしたビットがバギ・ドーガに収容されるのと同時に、エルンスト機のスクリーンにVサインを作ったカチュアが現れる。
 「えっへん! どう隊長、見てた? ワタシの大活躍!」
 「コラ、油断すんのはまだ早ぇぞ。敵さんがどこに隠れてるか分かったもんじゃ」
 「ううん、この辺にはもういないよ」
 迷いなく、カチュアが言い切る。エルンストは片眉を上げた。
 「自信満々だな? 根拠は?」
 「ないよそんなの。でもいないもん」
 「あのなお前」
 「うるさいなー! いないったらいないの!」
 少し怒ったように、カチュアは頬を膨らます。エルンストは腕組みした。デスアーミーの残骸を見やる。
 デスアーミーはどこから出てくるか分からない。それらが活動を開始して数年も経とうというのに、出現場所の予測すらロクに出来ないのが現状だ。ミノフスキー粒子の影響もあり、彼らの存在を完全に把握するのは不可能と言っても過言ではないのだ。
 (だってのに、こいつはそれを一瞬で見抜きやがったのか……?)
 カチュアは拗ねたようにそっぽを向いている。エルンストは目を細めた。
 「ニュータイプ……こういうのが?」
 「え、なに?」
 「何でもない。ま、いつまでもこんなとこにいても仕方ないしな。カチュアの勘を信じて、行くとすっか」
 カチュアの顔が一転して明るくなった。目が輝いている。
 「じゃあさ、第一小隊と……」
 「先行してるエリスたちと合流すっぞ。ドクもいいな」
 「お、おう」
 カチュアの頬が不満げに膨らんだ。機体を前方に移動させながら、エルンストは苦笑を返す。
 「そうぶーぶー言うなよ。大体、今から行ったって俺らの出る幕はねぇよ。あいつらは天下の第一小隊だぜ?」
 「違うもん! そんなの、全然関係ないの! ワタシはマークさんの傍がいいの!」
 カチュアとドクも後ろから追いついてきた。エルンストはため息を吐いた。
 「あのなぁ、お前時と場所を考えろよな。マークにベタベタすんのは艦内でも出来んだろうが」
 「それじゃ意味ないもん」
 「はぁ?」
 エルンストが眉根を寄せる。ドクがどこか遠慮がちに口を挟んだ。
 「そ、そういえば、いっつもはあんまりマークの近くに行かねぇよな、カチュア」
 「……そう言われりゃそうだな。っつーか戦闘のときだけだよな、マークの傍に行きたがるの。何でだ?」
 「それは……うーんとね」
 カチュアは小さな体を丸め込むようにして腕を組み、数秒一生懸命考えていたが、やがて何かを思いついたように顔を上げた。
 「匂いがするの」
 「匂い?」
 「そう、匂い。だから宇宙じゃなきゃダメなの!」
 カチュアはすっかり満足した表情で頷いたが、エルンストは少しも納得できなかった。
 「全然分かんねぇよ。匂いってお前……宇宙じゃますますそんなもん分かんねぇだろ?」
 「だって、宇宙って何にもないじゃん」
 「何にもない?」
 「そう、だから分かるの、マークさんの匂い」
 エルンストの視線が、戦友たちを映した写真に向けられた。
 「何にもないから、感覚がクリアになる?」
 「そんな難しいのじゃないよ。でも、艦の中でマークさんに会ったときは分かんなかったんだもん」
 「匂いが?」
 「うん! でもきっと、宇宙なら分かるって思ったの。だから宇宙でマークさんに会うの」
 「宇宙じゃないと分からない……?」
 「そう。宇宙って凄いんだよ。心を広げれば何でも伝わるの」
 エルンスト機のスクリーンに映ったカチュアが、狭いコックピットの中で大きく両手を広げる。
 「こうしてるだけで、いろんなものがワタシを通り抜けていくの……隊長も分かるでしょ?」
 ゆりかごに揺られて夢を見ているような、うっとりとしたカチュアの笑顔。
 エルンストは、自分の指が写真のある部分だけを繰り返し撫でていたことに気がついた。
 頭の奥で太陽が生まれたように、意識が熱を帯びてひどくぼやける。
 「なあ、カチュア」
 絞り出した声が、わずかに震えていた。
 「なあに?」
 「マークの匂いっての……どんな感じなんだ?」
 「え? うーんとね……」
 カチュアは少し首を傾げたが、言葉はすぐに見つかったようだ。
 「懐かしいの」
 「懐かしい……」
 「うん。それに、あったかい。一度も会ったことないのに、知ってる匂いがしたの。だから、マークさんに会いたいって思ったの」
 カチュアの言葉には、澱みも迷いもない。エルンストは無言で彼女の微笑を見ていた。
 「……な、なあ、俺、全然分かんなかったんだけどよ……」
 小さな声で自信なさそうに、ドクが言う。カチュアは小馬鹿にしたように笑った。
 「フフン。そりゃそうだよ、あんたバカだもん。だからハゲなのよ」
 「な、な、何だと!? そ、それとこれとは、か、関係ねぇじゃねぇか!」
 「うっさいよハゲ」
 「ハゲって言うなチビ!」
 「何よこの……あれ、どうしたの隊長ボーッとしちゃって?」
 カチュアが首を傾げた。
 「あ……いや、何でもない」
 エルンストは慌てて手を振ると、気を取り直すように軽く咳払いした。
 「あー、で、何だったか……そうそう、さっさとエリスたちと合流するとしようぜ。なに、第一小隊の奴等だって戦い終わったらグランシャリオに戻るんだ。その途中で多分マークにだって会えるさ」
 「ホント!?」
 「ま、保証は出来ねぇけどな」
 「やったぁ! 隊長、早くエリスちゃんたちに追いつこうよ!」
 バギ・ドーガが加速し、少し離れたところで踊るように反転した。モノアイがはしゃぐような光を放つ。
 「ホラ、隊長早く早く!」
 エルンストは苦笑しながら、写真に映っている戦友の内、一人の顔を指で弾いた。
 「ったく、これだからなぁ……おい、元気すぎて俺の手には負えねぇぜ? そういうとこだけは……」
 「な、なぁ、隊長……」
 「ん?」
 明らかに沈んだ声。顔を上げると、俯いたドクがスクリーンに映っていた。
 「どうした?」
 「や、やっぱ俺ダメなんじゃねぇかな……」
 「いきなり何だよ」
 「だ、だって、さっきだって隊長とカチュアはすぐに敵倒したのに、俺なんか……」
 「あのな、そういちいち落ち込むなよ」
 「でもさ……」
 「別に構わないだろ、敵倒せればよ。他の奴がやれるんだ、無理してお前がやる必要はないよ」
 「だけどよぉ……カチュアなんて俺よりずっとガキなのに……」
 「そんなの関係ないよ。いいか、さっきはたまたま俺とカチュアが早く動いた。それで敵倒せた。お前の出番じゃなかったんだ。な? それでいいだろ」 
 まだ納得がいかなそうなドクに、エルンストは苦笑した。
 「ま、不安なのは分かるがな……ドク、確かに、お前に出来ないことはたくさんある。だが、出来ることだってあるんだ」
 「……たとえば?」
 「それは俺には分からんさ。いや、お前にだって分からんかもしれない。でもな」
 エルンストは、怯えているようなドクの目を見つめながら言った。
 「出来る、と心の底から確信する瞬間が、必ず来る。そういう時は、余計なことを考えずにそれだけを信じて行動するんだ。そうすりゃきっと出来る。分かるか?」
 「……出来る、と心の底から確信する瞬間……」
 ドクの瞳が、初めて光を目にしたような色を帯びる。彼の口からもう一度その言葉が繰り返されたとき、先行していたカチュアから突然通信が入った。
 「隊長、何か大変なことになってるみたいだよ!」