【ある姫君の暴走】 692氏



 少女は走っていた。服が汚れるのなど少しも気にもせず、美しい白い肌をわずかに紅潮させて。周囲には緑の香が満ち、木々の隙間から差し込む日差しが少女の笑顔を明るく照らし出していた。
 「ネリィお嬢様ー! どこに行かれたんですかー!?」
 背後から聞こえてきた小さな叫び声に、少女は走りながらケラケラと笑う。
 「私はここよー。ベイツ、追いついてごらんなさいな」
 「無茶言わんでください、少しは俺の年も考えてってうわ、犬が、何かデカイ犬がぁぁ!」
 叫び声は途中で悲鳴にかわり、遠くの方でバタバタという足音が遠ざかっていく。少女はおかしくてたまらないと言う風に笑い、そのせいで足をもつれさせて転んでしまった。しかし、服や肌に泥がつくのも、少女にとっては楽しいことらしかった。少女は地面を覆う草の上に横たわったまま、楽しそうに笑い続ける。
 どこからか、ヴァイオリンの音色が聞こえて来たのはそのときだった。少女はゆっくりと身を起こし、不思議そうに周囲を見回す。そして、音の聞こえてくるほうに向かって歩き出した。
 木々の隙間を歩き、少女はいつしか森から抜け出していた。正面に、見慣れない建物が見えた。ヴァイオリンの音色は、そこから聞こえてきている。
 少女は好奇心に満ちた目で建物に近付き、音色の出所である窓をそっと覗き込んだ。
 そして、自分と同じ金色の髪を持つ、一人の女の子の後姿をその目のとらえたのだった。

 不意に、ネリィは目を覚ました。耳元でけたたましくアラームが鳴り響いている。ゆっくりと身を起こして首をめぐらすと、見慣れた自室の光景が目に入ってきた。欠伸を一つしながら時計のアラームを止め、ネリィはしばらくベッドの上でぼんやりしていた。





 機動戦記Gジェネレーションズ 第二幕 第三話 ある姫君の暴走





 その日ネリィは非番だったが、どこかに出かけることもなく、夕方になっても部屋の中にいた。書類などが散らばったデスクに、何をするでもなく座っている。右手で、数日前にジュナスから渡された筒を弄んでいた。
 「シャロン・キャンベル……」
 その名前を呟き、どこか違和感を覚えたように、ネリィはかすかに顔をしかめる。
 「キャンベル、か。一体どなたの姓なのかしら?」
 少し考えて、ネリィはデスクの一番下の引き出しから、一冊の古いアルバムを取り出した。アルバムの中のどの写真にも、金髪の少女……昔のネリィが写っている。好奇心に満ちた瞳と、活発で健康的な笑顔が並ぶ。ネリィはクスリと微笑を零した。
 スカートをたくし上げて木登りしている十歳ぐらいのネリィと、焦った顔でそれを見上げている無精ひげの男の写真を見て、ネリィは懐かしそうに、
 「ベイツは元気にしているかしら」
 後半の写真のネリィは、前半に比べればいくらか大人しくしていることが多かった。父親と一緒に写っているものが多いからだ。
 可憐なドレスを身に纏い、十二歳ぐらいのネリィが緊張した表情でカメラを見ているのに対し、そばに立っている父の顔はどこまでも穏やかだった。郷愁を含んだ瞳でそれを見つめ、ネリィは吐息混じりにアルバムを閉じる。
 「……母様のはともかく、シャロンの写真は一枚もありませんのね」
 ネリィは、思い出すように目を閉じた。古い記憶を呼び覚ます。邸内の隅に建てられた、小さな別館。その部屋の一室で、一人ヴァイオリンを弾いていた少女。芸術家が人形に魂を込めたのではないかと見まがうほどに、美しい顔立ち。
 「そう。あの子は、初めて会ったあの部屋を一歩も出たことがないみたいだった。まるで、ガラスケースに収められた人形のように、あの子はいつもあの部屋にいた。それが役目であるかのように、あの部屋から動かなかった」
 独白しながら、ネリィがデスクの上に置いた筒を手に取ったとき、聞きなれたアラームが鳴り響いた。艦長室からの通信。
 「はい」
 「こんばんは、ネリィさん。お休みのところを申し訳ありませんね」
 穏やかな表情のエターナが、壁に備え付けられたモニターに顔を出す。既に居住まいを正していたネリィは首を横に振って、
 「いえ。何か急な仕事でも入りまして?」
 「ああ、そういうのじゃなくてですね。ネリィさん、今、このコロニーにキリシマさんがいらっしゃっているのをご存知ですか?」
 「キリシマ……フローレンス姉様が?」
 ネリィの顔に喜びが広がった。エターナは笑顔で頷き、
 「ええ。それで、少しでいいからネリィさんにお会いできないかと、先ほど通信がありまして。キリシマさんはお忙しいらしくて、あまり時間は取れないそうですけれど」
 「構いませんわ。時間の指定などはありまして?」
 「とりあえず、今日の十時ごろから一時間ほどなら大丈夫だそうです。支社までの道は分かりますか?」
 「ええ。ありがとうございます、艦長」
 「いえ。それでは、楽しんできてくださいね」
 微笑みを残して、エターナの顔がモニターから消える。ネリィはまたデスクの一番下の引き出しを開け、先ほどとは別のアルバムを引っ張り出した。中身は、先ほどの物とは方向性が全く異なる写真ばかりである。その中の一枚……今より少し若いネリィと、黒い長髪の女性が並んで写っている写真に目を落とし、ネリィはうっとりと呟く。
 「フローレンス姉様……」
 黒い長髪の女性の名前である。その写真が異様なのは、写っている女性が二人とも、いわゆる「特攻服」を着ていることだ。二人は隣り合い、俗に言う不良座りをしている。ネリィがいくらかぎこちないのに対して、フローレンスの方はレンズを睨み上げている目つきといい、実に堂に入った雰囲気である。服の袖には「離死手亞」という文字が縫い付けられていた。
 他の写真も、大体似たような感じのものばかりだ。ネリィはしばらく、思い出に浸るような懐かしげな目つきでアルバムを眺めていたが、ふと壁の方を見つめ、
 「あれ、着ていこうかしら」
 ハンガーに掛けてあるのは、先の写真にも写っていた特攻服である。背中の部分に大きな赤い文字で「離死手亜」という刺繍が施されている。少し考え、ネリィは首を振ってため息を吐いた。
 「駄目ね、フローレンス姉様もお仕事の最中だし……一人で特服を着ていくなんて、チームに対する冒涜だわ」
 一人ごちたあと、ネリィは時計を見て、
 「まだ少し早いかしら。でも、万一姉様をお待たせしたら失礼だし」
 と呟き、いそいそと外出の準備を始めた。

 艦の出入り口に向かう廊下の途中で、ネリィは足を止めた。どこからか、賑やかな談笑が聞こえてくる。
 「ん?」
 廊下の途中に設けられた休憩スペースに、何人か集まって話しているようだった。
 「何かしら」
 覗き込むと、見慣れたメンバーが休憩スペースのソファに座っているのが見えた。
 「それでね……あらネリィ、こんばんは。どこかへお出かけ?」
 周りのメンバーに向かって夢中で喋っていたミリアムが、ネリィに気付いて軽く手を振ってきた。ネリィが答える前に、その場にいたカチュアが、
 「あれ、今日のネリィ、何かいつもと違う」
 「ホントだ。すげー、いつにも増して高そうな服着てるなー」
 脳天気に言ったのはジュナスである。彼らの他にはエルンスト、ラナロウ、ノーラン、ショウ、シスがいた。さすがに、これだけいれば休憩スペースも狭苦しく見える。駆け寄ってきたカチュアが、目をまん丸にしてネリィを見上げ、
 「あ、それに、いつもよりお化粧が丁寧だ」
 そして無邪気にはしゃぎながら、
 「分かった、オトコに会いにいくんでしょ」
 「だからお前はどこでそういう言葉を覚えてくるんだよ」
 エルンストが苦笑する。その向かい側に座っているショウが顔を赤くしながら、
 「オトコって、つまり恋人のことですよね」
 「まあ、そうなるね」
 隣に座っていたノーランが、苦笑気味に答える。
 「ネリィの恋人、か……どんなのだろ……」
 腕を組んで考え込んでいたジュナスが、おもむろに顔を上げ、
 「奴隷?」
 「アナタは私を何だと思ってますの?」
 ネリィがジュナスを睨みつける。ジュナスは首をすくめた。ミリアムが笑いながら、
 「まあ、冗談は置いといて……どうなの、ネリィ?」
 「え?」
 いつの間にか、全員の視線がネリィ集中していた。好奇心一杯に見上げてくるカチュア、興味津々に身を乗り出しているジュナス、にやにやしているエルンスト。ネリィはため息を吐いた。
 「そんなんじゃありませんわ。昔お世話になった方に会ってくるだけでしてよ」
 「そう? それにしては、凄く気合が入ってるみたいだけど」
 茶化すように、ミリアムが言う。ネリィは頬を染めて、
 「それは、まあ……何というか、憧れの人ですから」
 おおっ、と全員が少しざわめいた。ネリィは慌てて、
 「あ、でも、女性ですわよ。殿方ではございませんわ」
 「あ、なんだ……お世話になった先輩、っていう感じ?」
 「まあ、そんなところですわ」
 ネリィはほっと息を吐いたが、休憩スペースの一角では、
 「女、だってよ。でもやっぱあの化粧は不自然じゃないか?」
 「ネリィって鞭が似合うと思ってたけどさ……その上アブノーマルだったんだなぁ」
 「あぶのーまるって何だ?」
 エルンスト、ジュナス、ラナロウである。ネリィは拳を握って、
 「一発ぶん殴って差し上げましょうか?」
 「ほらほらネリィ、そんな怖い顔しちゃ折角の化粧が崩れちまうよ?」
 「あ」
 ノーランに穏やかに諭され、ネリィは慌てて居住まいを正す。
 「ヘッ、喧嘩ならいつでも受けて立って」
 「あなたは余計なこと言わなくていいの」
 威張るラナロウの言葉を、ミリアムがぴしゃりと遮る。そこでようやく質問の機会を得たネリィが、
 「ところで、皆様こんなところで何を話されてましたの?」
 「え? ああ、それはね」
 「怖い話だよ」
 まだネリィのそばにいたカチュアが、元気な声で答える。ネリィは頬を引きつらせて、
 「え、怖い話?」
 「そうよ」
 「どうしてそんな」
 ネリィの声が硬い。ミリアムはきょとんとして、
 「まあ何となく、成り行きでだけど……ネリィ、ひょっとして、そういうの苦手な方?」
 「え!?」
 ネリィはあからさまに動揺しながら、取り繕うように引きつった笑いを浮かべ、
 「そ、そんなことありませんわ! こ、この私が、お、お化けなんかを怖がるだなんてそんな馬鹿な話」
 「へー、ネリィはお化けが苦手だったのかぁ」
 何故か感心したように、ジュナスが言う。ネリィは必要以上に力み、
 「ち、違うと言っているでしょう! へ、変なレッテルを貼るのは止めてくださらないかしら?」
 「だよなぁ。ネリィならお化けだって轢き殺せそうだ」
 ジュナスはあっさり引きあがった。
 「ヘッ、なら俺は叩き殺して」
 「はいはい、あなたは何も言わなくていいから」
 またもラナロウの台詞を相殺するミリアム。ネリィは「隙あり」とでも言うように、
 「そ、それでは皆様、そろそろ約束の刻限が迫ってまいりましたので、これで失礼……」
 「約束の時間って何時?」
 「え、十時ですけれど」
 カチュアに答えてしまってから、ネリィは「しまった」と言うように口を押さえる。全員の視線が壁の時計に集中し、
 「まだ六時前じゃん」
 「四時間もあればコロニー内ならどこでも行けるよねぇ」
 「ってことはやっぱり」
 再びネリィに視線が戻ってくる。ネリィは両手をブンブン振って、
 「ち、違いますわ! け、決してお化けが怖いとか夜眠れなくなるとか、そういうことではなくて」
 「じゃあさ、時間来るまでネリィも一緒に話していかないか?」
 ジュナスが誘う。嬉しそうな口調。表情にも悪気が全くない。ネリィは焦った様子で目をそらしながら、
 「え、いえ、でも、そのぉ……」
 どうも歯切れが悪い。その時、ずっと黙っていたシスが、
 「あ、あの……」
 と、躊躇いがちに口を開いた。途端に視線がそちらに集中する。シスは怯えたように俯き、また黙ってしまう。
 「ど……どうしたの、シス?」
 ショウがぎこちなく助け舟を出した。隣でノーランが「よくやった!」とガッツポーズを作る。シスはショウの方をちらりと見て、
 「あの……怖がっている人を、無理矢理こういう話に参加させるのは……」
 「かわいそう?」
 ショウが言うと、シスはこくりと頷いて顔を伏せた。ネリィの頬がぴくりと動く。
 「……なんですって?」
 「あー、そっか。確かに、怖がりな人がこういうの聞くと後が大変だもんね。ごめんね、ネリィ」
 ミリアムが軽く謝り、ネリィの頬が引きつった。
 「あ、やっぱ怖かったのか。人って見かけに寄らないんだなぁ」
 ジュナスが感心したように言い、ネリィの眉間に皺が寄った。
 「ヘッ、チキン野郎は引っ込んでやがれ」
 ラナロウが吐き捨て、ネリィのこめかみに青筋が立った。
 ネリィは無言で休憩スペース中央のテーブルに歩み寄り、その表面を思い切り手で叩いた。そして、呆気に取られるその場の面々を睨み回し、
 「……そこまで言われて引き下がる訳には参りませんわね……」
 「へ?」
 きょとんとするミリアムの横を通り抜け、ネリィは乱暴にソファに腰を下ろす。
 「遠慮なくお話しなさい。その上で私が臆病者かどうか、決められるとよろしいですわ!」
 鼻息も荒くネリィが宣言すると、周囲が「おおっ」とどよめいた。ノーランが心配そうに、
 「ネリィ、無理はいけないよ?」
 「おほほほほほ、この私のどこがどう無理をしていると言うのです?」
 膝をガクガクさせながら、ネリィが言う。ノーランは何か言いたげな顔だったが、結局はため息を吐いて首を振った。ミリアムが嬉しそうに、
 「じゃ、ネリィも怖い話を聞くってことでいいのね?」
 「え、ええ。い、いくらでもどうぞ?」
 「そう。じゃ、話させてもらいましょうか」
 ミリアムはウキウキした様子だった。「何でそんなに嬉しそうなんだ?」とエルンストに聞かれ、「ああいう人が一番いい反応してくれますからね」と答える始末だ。
 「外道……」
 思わず呟くネリィに、
 「……なぁネリィ、ホントに大丈夫か?」
 少し心配そうに、ジュナスが問いかけてくる。ネリィは彼の横に座ったのだ。
 「だ、大丈夫も何も、この私がお化けなんかを怖がる訳がないでしょう? だ、大体、魂だの霊魂などは全てプラズマですわ。偉い人もそう仰っています」
 喋れば喋るほどに、ネリィの体の震えは強くなっていく。ジュナスは気付いた様子もなく、
 「そうかー、プラズマかー。なんか分かんないけど凄いなぁ」
 と、感心した様子だったが、ネリィはそれどころではないという感じの強張った表情だ。ジュナスはそれを横目で見やりながら、
 「でもさぁネリィ、怖い話だったらうまいんじゃないのか?」
 突然の言葉に、ネリィは数回瞬きして、
 「……どうしてですの?」
 「だって、ネリィん家って結構古いじゃんか。なら、幽霊の一人や二人となら会ったこともあるんじゃないの?」
 「そんな、古いと言ってもコロニーですもの。せいぜい五十年程度ですわ。それに、会ったら会ったでもっと怖い……」
 と、鼻で笑いかけたネリィだったが、ふと眉をひそめ、
 「ジュナス、どうしてあなた、私の家のこと知ってらっしゃるの?」
 「え? あー、それはさ」
 ジュナスが説明しかけたとき、「さて、と」とミリアムが呟き、低い声で語りだした。