【ある姫君の暴走】 692氏



 気がつけば、ジュナスは地面に座り込んでいた。
 横を向くと、同じ姿勢のネリィが呆然としている。
 その視線の先には、あの壁があった。その根元に、二台のバイクが折り重なっていた。
 ネリィとジュナスが乗っていた上の一台は完全に無傷だったが、下敷きになっている方は車体がひしゃげて、完全に壊れてしまっていた。
 「……何だったんですの?」
 「ん?」
 隣に顔を向ける。ネリィは呆然と、二台のバイクを見つめ続けていた。
 「壁にぶつかると思ったとき、蒼い光が広がって……私たち、何故無傷でここにいるのかしら?」
 ジュナスは答えなかった。ただ、下敷きになった幽霊バイクに、労わるような視線を向けた。
 「かばってくれたんだな」
 ふっ、と笑う。
 「ありがとう」
 と、唐突に、周囲が騒がしいことに気付く。見回すと、狭い路地裏に人だかりが出来ていた。
 「おぉ!? な、何だ何だ!?」
 「そりゃこっちの台詞だよ」
 群集の間から、一人の男が出てきた。制服を着た警官だ。面倒くさそうな顔をしている。
 「ったくよぉ。今日も何事もなく終わりかと思ったら……何やってんのあんたら」
 「え?」
 「あんな旧式の乗り物で街中爆走して、その挙句に事故って壁に激突なんて。ちょっとは人の迷惑も考えたらどうだ、あぁ?」
 「いやぁ」
 ジュナスはどう説明したものかと頭をかく。ネリィはまだ呆然としているようだった。
 「ちょっとしたデモンストレーションだよ……ですわ」
 「は?」
 と、唐突に、涼やかな声が上がった。人垣が二つに割れ、その向こうから一人の女性が歩いてくる。それを見て、ジュナスは「お」と声をもらし、ネリィは「う」と呻いた。
 「我がGジェネレーションの新製品をお前ら……皆様に知っていただくための、デモンストレーション」
 その黒いコートを羽織った長身の女性は、困惑する警官の眼前で優雅に立ち止まり、
 「本来なら事前に通達しておくべきでしたけど、どうやら手違いがあったみたいだな……ですわ」
 「デモンストレーションって……この騒ぎが?」
 警官は、疑わしそうに女性を見る。女性は警官の手をそっと握り、
 「ええ。ですから、事件だとか何だとか、そういったことは一切ねぇんだよ……ないのでございますわ。お分かり?」
 と、首を傾げて手を離す。警官はチラリと自分の手の平を見下ろすと、
 「……へ。まあいいか」
 呟き、群集に向かって叫んだ。
 「聞いてただろお前ら! そういう訳だから、今回のことはこれで終わり! さ、散った散った!」
 「うるせー!」「あっさり買収されてんじゃねぇぞこのクソポリ!」群集の反応はほとんど怒号だった。彼らと警官が罵りあいを続けるのを横目に、女性はつかつかとジュナスとネリィに歩み寄り、
 「……で、実際何やってたんですの、お前ら……あなた方」
 呆れた様子で聞いてきた。ジュナスは苦笑し、
 「何と言ったらいいんだか。ま、とりあえず……」
 立ち上がり、頭を下げる。
 「ども、お久しぶりです、キリシマさん」
 「ん。元気そうだな……ですわね、ジュナス」
 「まあ、お蔭様で」
 「で……」
 と、フローレンスはちらりと、ネリィを見た。ネリィは座り込んだ姿勢のまま、びくりと身を震わせる。
 「久しぶりといえばこっちも久しぶりだねぇ、ん? ネリィちゃん?」
 「は、はい……」
 「アタイとの約束すっぽかして、その上トップクまで持ち出して、アンタは一体何をやってるのかなぁ?」
 少し首を傾げながら、ネリィを見下ろす。ネリィの身体が小刻みに震えた。声を出すどころか、顔を上げてフローレンスと視線を合わせることすらしない。
 「……何とか言えやコラ」
 ドスの利いた声。硬直してしまったネリィを見かねてか、ジュナスが青い顔で、
 「い、いや、キリシマさん、これには深い訳が」
 「深い訳?」
 「そ、そう! た、確かに約束の時間に遅れたのは悪いことだけど、そうしなきゃいけない特別な理由があって」
 あたふたと説明するジュナスをじっと横目で見てから、フローレンスはふっと微笑んだ。
 「なるほど、特別な理由がね」
 「そ、そう!」
 ジュナスの顔が明るくなる。しかし、フローレンスは微笑んだまま、
 「ふーん、特別な理由ねぇ」
 と、ネリィの前にしゃがみこみ、
 「なるほどねぇ」
 呟きつつ、ネリィの下顎に人差し指をかけ、彼女の顔を持ち上げて強引に自分に向けさせた。息を呑むネリィに向かって優しく目を細め、
 「そうなの。特別な理由があったの、ネリィちゃん?」
 と、幼い子供に対するような口調で聞く。
 「それってつまりさぁ。このアタイことフローレンス・キリシマと久方振りに再会するっていうのよりも、もっと大事な用事があったってことだよねぇ?」
 「う……」
 恐怖に見開かれたネリィの瞳を覗き込むように、フローレンスはずいっと顔を近づけた。
 「何だろうなぁそれ。すっげー気になるなぁアタイ。ネリィちゃんにとっては命の恩人とも言えるこのアタイよりも大事な大事な用事って、一体何なのかなぁ?」
 異様なほどに優しい声。それを吐き出す唇は微笑の形を描いているが、しかし、目は少しも笑っていない。
 「気になるなぁ。教えてほしいなぁ。だけどその理由ってのがあんまりにもくだらなかったりしたらショックだなぁ。ネリィちゃんにとって、アタイってそんなのよりくだらない存在ってことになるもんねぇ。そんなことはないと思うけど、もしそうだったら許せないよねぇムカツクよねぇ。あんまりムカツきすぎて思わずこの顎砕いちゃっても仕方ないよねぇ?」
 と、可愛らしく首を傾げながら、ネリィの下顎にかけた指先に力をこめる。ネリィの顔から見る見る内に血の気が引いていく。あまりの迫力に気圧されたのか、横で見ているジュナスも身動き一つ取れないでいる。
 そんな緊迫した雰囲気が数瞬続いたとき、フローレンスが、唐突に「ぷっ」と吹き出した。何かをこらえきれなくなったように、腹を抱えて笑い出す。
 「へ?」
 あまりの急展開に、ネリィが目を白黒させる。それを横目に、フローレンスは身をよじってひたすら笑っている。先ほどまでの妙な迫力のある笑みではなく、ただ心底おかしそうな馬鹿笑いである。
 「フ、フローレンス姉様?」
 へたりこんだままのネリィが、恐る恐る声をかける。フローレンスは笑いすぎて目じりに浮かんだ涙を拭いながら、
 「あー、悪ぃ悪ぃ。久々にネリィのびびった顔見たらおかしくなっちゃってさ」
 ぴらぴらと手を振るフローレンス。ネリィと同じく唖然としていたジュナスが、
 「え、じゃあ」
 「ああ、話はもうエターナから聞いてるよ。それにしたって遅れすぎだとは思うけどよ」
 「ご、ごめんなさい……って、それでは、遅れた理由も知っていらっしゃるのですか?」
 「あ? 遅れた理由って、派手にすっ転んで気絶したジュナスをネリィが介抱してたってやつ?」
 「え?」
 「エターナはそう言ってたけど……違うのかよ?」
 フローレンスは不思議そうに聞いてくる。ネリィが答えられずにいると、突然ジュナスが叫びだした。
 「そ、そうなんですよ! そりゃもう派手にすっ転んじゃって、たまたま通りかかったネリィが見つけてくれなきゃどうなってたことか! なぁネリィ?」
 「え?」
 困惑した様子のネリィに、ジュナスは「話を合わせろ」とでも言うようにウインクを送ってきた。ネリィは数回瞬きしたあと、
 「そ、そうなんですのよ! もうホント、私の目の前でジュナスが空中大回転を決めたときはどうしようかと」
 「はぁ。どんな状況なんだ、そりゃ」
 必死に取り繕う二人に、フローレンスはいささか呆れ気味である。が、
 「でも、それだけじゃねぇよな?」
 「は?」
 「あれだよ、あれ」
 と、フローレンスが顎で示したのは、折り重なっている二台のバイク。
 「その格好といい……どっかの奴とレースしてたんだろ?」
 特攻服姿のネリィを眺めながら、フローレンスが念を押すように聞いてくる。
 「んなことやってなきゃ、ここまで遅れるこたなかった……違うか?」
 「……はい」
 ネリィは素直に頷いた。フローレンスは少し黙っていたが、
 「で?」
 「え?」
 「結果は? まさか、『離死手亜』の看板背負って負けたってんじゃねぇだろうな?」
 誤魔化しを許さないような、鋭い眼差しが飛んでくる。
 ネリィも背筋を伸ばして胸を張り、その視線を真っ向から受け止めた。そして、朗々と声を張り上げ、言った。
 「もちろんですわ総長。このネリィ・オルソン、他人の単車のケツを追うような真似はいたしておりません」
 「チームの名を汚すようなことはしてねぇだろうな?」
 「はい。最速の走り屋『離死手亜』の名に恥じぬよう、正々堂々と戦い抜き、誇り高き勝利をこの手で勝ち取りましたわ」
 「その言葉に偽りはないな?」
 「『離死手亜』の名に誓って」
 芝居がかったやり取りと共に、二つの強い視線がぶつかり合う。フローレンスは視線を外さぬまま、ふっと満足げに微笑んだ。
 「なら良し。アタイとの約束を破ったことも不問にしておいてやるよ」
 「ありがとうございます!」
 ネリィが勢いよく頭を下げる。フローレンスも笑顔で頷きながら、
 「しっかし、あんたも相変わらずだね、ネリィ」
 「いえ、姉様もお変わりなく」
 「ま、お互い様ってところかね。ところで」
 フローレンスは不意にジュナスの方を向き、
 「何だってジュナスがついてきてるんだい?」
 「え? あ、ええと」
 儀式のような二人のやり取りをほとんど蚊帳の外で眺めていたジュナスは、あたふたしながら、
 「ほら、俺のせいで遅れちゃった訳だから、やっぱ謝った方がいいかなって」
 「ああ、そういうこと」
 と、フローレンスはどこか意地悪そうににやにや笑いながらネリィを見て、
 「アタイはまた、夜道を一人で歩くのが怖いからついてきてもらったのかと思ったよ」
 「オホホホホホ、な、何を仰いますのフローレンス姉様。この私に限ってそんなことは」
 「へぇ。じゃ、お化け嫌いは直ったんだ?」
 「も、もちろんですわ」
 「ふーん。ところでネリィ、背中に知らないじいさんが乗っかってるぞ」
 ネリィが悲鳴を上げてジュナスに飛びついた。フローレンスはそれを見て一瞬意外そうな顔をしたあと、からからと笑いながら、
 「直ってねぇじゃん」
 「ひ、ひどいですわ姉様」
 「あんたも嘘吐いたんだからお互い様だろ。にしても、随分仲がいいんだねお二人さん?」
 先ほどとはまた違った含みを持った、にやにや笑い。ネリィは「え?」と首を横に向け、自分がジュナスに抱きついているのを認めると、再び悲鳴を上げて彼の頬を殴りつけた。「ぶっ」と息を漏らしながら、ジュナスが地面に叩きつけられる。照れ隠しにしてはかなり豪快である。
 「嫌ですわもう」
 「……それはこっちの台詞だよ……」
 「あ、ごめんなさいねジュナス。痛くありませんでした?」
 「いちいち聞かなくても分かるだろ……」
 顔を赤くして呟くネリィと、違う意味で赤くなった頬をさすりながら身を起こすジュナス。フローレンスはまた吹き出した。
 「ははっ、何だか面白いねあんたら」
 「こっちは大変ですけど……って、あれ?」
 苦笑しかけたジュナスが、ふと眉をひそめる。
 「どした?」
 「いや……あれ?」
 ジュナスは困惑した様子でまじまじとフローレンスを見て、
 「キリシマさん……ですよね?」
 「失礼ですわよジュナス」
 「いや、何か、前会ったときと随分印象が違うなぁと思って。前はもっとこう、落ち着いた感じっていうか」
 「あぁーっ!」
 ジュナスの言葉を遮るように叫んで、フローレンスが口を押さえた。
 「やっべ、ネリィの前だからってつい素になっちまってたよ。油断も隙もあったもんじゃねぇなこりゃ」
 「素、ですの?」
 「ああ。ほら、アタイって一応社長秘書だからさ。いっつもはもっとこう、お嬢様っぽい感じに喋ってるんだよ……いるのですわ」
 一つ咳払いをして、フローレンスが居住まいを正す。
 「ホントにもうお恥ずかしい。ジュナスさん、先ほどまでのは本物の私じゃありませんからどうぞ忘れろやコラ……いやいや、忘れてくださいなオホホホホホ……」
 「はぁ……」
 今ひとつ釈然としない様子で、ジュナスが頷く。フローレンスはうーん、と唸りながら、
 「やっぱ難しいもんだなぁ。ネリィの真似してんだけど」
 「ああ、だからああなるんだ」
 「ちょっと、どういう意味ですの?」
 ネリィが軽くジュナスを睨む。フローレンスはそんな二人をどこか微笑ましげに見ながら、
 「さって、それじゃ、帰ろうかね」
 「え、もう?」
 「ああ。ネリィの元気そうな顔見て安心したし、実を言うととっくに休憩時間終わってるんだよな」
 「そうでしたの……ごめんなさいフローレンス姉様」
 肩を落とすネリィに、フローレンスは軽く苦笑する。
 「そんな顔すんなって、またその内時間もできるさ」
 「それは、そうですけれど」
 「それにさ」
 と、フローレンスは自分の右目の横の辺りに、指で軽く触れ、
 「ちょーっとヤボ用が出来たみたいでさ。行かなきゃならねぇんだな」
 「ヤボ用、ですか?」
 「そ。ま、そんな訳で……あ、そうだジュナス」
 と、踵を返しかけたフローレンスがジュナスに歩み寄り、そっと耳打ちした。
 「ネリィのこと、頼むな」
 「え?」
 「あいつ、あんたに随分気ぃ許してるみたいだから」
 「俺に? 何で?」
 「あいつが他人に抱きつくのなんて、見たことなかったからさ」
 「はぁ」
 曖昧に頷きながら、ジュナスは少し離れたところにいるネリィを見る。ネリィは、低い声で囁きあう二人を不思議そうに見ていた。
 「見てて危なっかしいんだよ、ネリィって娘はさ」
 フローレンスは困ったように笑う。
 「何かってーと無茶するし、プライド優先で後先考えねぇし、それでいて意地っ張りで人に助け求めたりもしねぇし」
 「うん。それは、そうだと思うけど」
 「だけど、あんたにはちょっと素直みたいだからね。ま、二人の間に何があったんだか、アタイは知らねぇけど」
 「いや、別に何も特別なことは」
 「そう? ま、いいや。とにかく、頼むな」
 フローレンスは返事も聞かずにジュナスの肩を軽く叩くと、「んじゃな」と二人に手を振り、黒いコートの裾を翻して大通りの方に向かって駆けていった。ネリィとジュナスは、フローレンスの靴音を聞きながらしばらく黙っていたが、
 「ねえジュナス?」
 「ん?」
 「フローレンス姉様、あなたに何て?」
 「え? あー……」
 ジュナスはぽりぽりと頬をかきながら、ネリィの顔を盗み見る。夜中にバイクで走り回って少し薄汚れた、プライドの高そうな、お転婆なお姫様の顔。
 (……確かに、放っといたら何するか分かんないってのは、あるかもなぁ)
 ジュナスは小さくため息を吐くと、ネリィに軽く笑いかけた。
 「別に、大したことじゃないよ」
 「……本当ですの?」
 「そうだって」
 疑わしそうなネリィの瞳から、ジュナスは目をそらした。そして、彼女の長い金髪を視界にいれ、ふと
 「……そういや、あの子はどうしたかな」
 と、遠くの方を見て呟いた。