【ある姫君の暴走】 692氏



 怪物から逃げようとするかのように、シャロンは走っていた。
 夜でも目につく絹のように柔らかい長い金髪を振り乱し、精巧に作られた人形のように美しい顔立ちを紅潮させながら。
 その視線は、ひたすら前だけを見ていた。ただの一度でも振り向いたら、魔手に捕まってしまう。そんな走り方だった。
 潜伏先に程近い裏路地に入り、シャロンはようやく立ち止まる。肩で荒く呼吸しながら、廃屋の壁にもたれかかる。
 「……ネリィ姉様……!」
 激しい呼吸の隙間から、呪詛のような、あるいは悲鳴のような声が零れ落ちる。シャロンは顔を歪め、胸元のロケットペンダントを服の上から強く握り締めた。一つ呼吸を落ち着けて、さらに服の中に手を差し入れる。取り出したのは、夜の闇よりも禍々しい、黒い光を放つ拳銃。
 「……何故撃てなかった? いや、何故撃たなかった? いくら憎んでも憎み足りない、あの女を」
 シャロンは瞳を閉じて、姉の姿を思い浮かべる。
 長い金髪。奴の貴族らしいところはこれだけだ。好戦的な瞳に野蛮な挙動、他には貴族らしいところなど一つもない。
 (……そうだ、ネリィ・フォン・クォーツはそんな女だ。それなのに、奴は母様と……!)
 頭の奥が熱くなる。水に墨を流し込んだように、心にドス黒いものが広がっていくのが分かる。その感情の任せるまま、シャロンは想像上のネリィを撃とうとした。
 しかし、出来なかった。その途端に、頭の中に異物が紛れ込んできたから。
 それは、歌だった。誰かが唄う、優しい響きの子守唄。
 「……ッ! 止めろ、そんな物は関係ない!」
 小さく叫びながら、シャロンは目を開く。頭の中で流れ続ける歌を振り払うために、激しく頭を振る。
 「関係ない、奴は憎い女。殺したって飽き足らない女。母様の敵。それだけで、私には充分なはず……」
 シャロンは額に脂汗を浮かべ、眉間に皺を寄せながらじっとその銃身に見入った。
 「……それで、ネリィを撃つおつもりでしたの?」
 涼やかな声。シャロンはほとんど反射的な動きで身を起こし、声の方に銃口を向ける。
 自分が歩いてきた道、シャロンから見て数メートル先に、真っ黒な女が立っていた。長身、黒髪、黒コート。闇を跳ね返すような漆黒の痩躯が、壊れかけた街灯の頼りなげな光に照らされて、薄ぼんやりと暗闇の中に浮かんでいる。一瞬前まで気配などしなかったのに、視界にいれてみれば異様なほどの存在感を放つ。それは、そんな女だった。
 「……どなた?」
 内心の驚きを理性で無理矢理押し隠し、シャロンは努めて冷静な声で訊ねる。女はにぃっと唇を吊り上げた。
 「見ていたんですのよ。あなた、先ほどの人込みに紛れて、じっとネリィを見ていらしたでしょう? 私が出て行かなければ、危うく発砲するところだった。違います?」
 シャロンの質問には答えず、女はさらに言葉を続ける。
 「いけませんわね、あんなに憎悪たっぷりの視線で観察対象を見るだなんて。あなた、周囲の人たちから随分浮いていましてよ? もっとも、私以外の人たちは気付かなかったみたいですけれど」
 おかしそうに笑う。シャロンはそれでも冷静に、銃口を女から外さない。いつでも撃てるように引き金に指をかけたまま、言う。
 「退きなさい。今ならまだ撃たずに済ませてさしあげますわ」
 しかし、その退去勧告にも、女は平然としたものだった。まるで銃口が見えていないように……いや、銃に何の脅威も感じていないかのように、
 「自分の舎弟をあんな風に見ている人がいたんですもの、ついつい気になってあなたを追ってきてしまいましたけど……正解だったみたいですわね。あなた、ちょっと有名でしてよ?」
 と、おかしそうにくすくすと笑い、
 「ねぇ、『捨てられ人形』シャロン・キャンベルさん?」
 その言葉に、シャロンの目が大きく見開かれた。全身が大きく震え、ただ激情に任せるままに、
 「黙れ!」
 シャロンは女のその一言だけで激昂し、躊躇いなく引き金を引いていた。静まり返った夜の空に、乾いた銃声が鳴り響く。
 そして、気がついたときには、シャロンは地べたに顔を押し付けられていた。
 (……今)
 何が起きたのか。
 「いけませんわねぇ。あんなことで冷静さを失うだなんて」
 上から声が降ってくる。シャロンは銃を持っていた右手を捻り上げられ、うつ伏せに地面に押し付けられていたのだ。もがいても、女の押さえつけ方は完璧で、その拘束から抜け出すことができない。シャロンは何とか顔を動かし、自分の背に乗っている女をにらみつけた。女は平然とその視線を受け止め、笑った。
 「あらあら、元気なお人形さんだわ。私って力加減がうまくないってよく言われるんですけど、これならちょっと乱暴に遊んでも平気ですわね」
 楽しそうに呟きながら、シャロンの右手を捻り上げた腕に少し力を込める。シャロンの顔に一瞬、苦痛の色がよぎった。
 「あらごめんなさい、お人形遊びなんて生まれて初めてで、どうしたらいいのかよく分かりませんのよ。ちょっと痛いかもしれませんけど、我慢してくださいね、『捨てられ人形』さん」
 怒りに奥歯を噛み締めるシャロンに、女は……フローレンス・キリシマは、心底楽しそうに笑いかける。
 「さて……それでは、愉快で楽しい尋問タイムを始めましょうか」

 シャロンの背に膝を乗せたまま、フローレンスは問う。
 「あなただけではありませんわね?」
 念を押すような言葉。
 「このコロニーに、木星の部隊がいくつか出入りしている。そうですわね?」
 答えはない。フローレンスは構わずに、
 「特に問題なのは、あなたの部隊ですわ」
 呆れたように、
 「『捨てられ人形』シャロン・キャンベル、『偽りの天才』ユリウス・フォン・ギュンター、そして『隻眼の魔王』オグマ・フレイブ……何ともまあ豪華なメンバーだこと。でも、問題はそこではありませんわ」
 フローレンスは目を細める。
 「あなた方の任務は何ですの? それを教えてくだされば、見逃してあげてもよろしくてよ。喋らない場合は腕をへし折りますわ」
 シャロンは無言を通す。無言でフローレンスをにらみ続ける。フローレンスはため息を吐いて、
 「強情ですわね」
 言いつつ、微塵の躊躇いもなく腕に力を込めた。捻り上げられたシャロンの腕から、鈍い音が響く。シャロンの顔が苦痛に歪み、額に脂汗が浮いた。それを見て、フローレンスは微笑んだ。
 「まずは手始め。肩を外しただけですからご安心を。声も上げないというのは、よく訓練されている証拠。大したものですわねぇ」
 感心したように言いつつ、フローレンスは質問を繰り返す。
 「それで、あなた方の任務はなぁに? 言ってごらんなさいな」
 シャロンは顔を歪めたまま、唇を開いて小声で何かを言った。
 「ん? なぁに?」
 フローレンスはその声を聞き取ろうと、シャロンの顔に耳を寄せる。と、シャロンがフローレンスの顔に唾を吐いた。
 「あなたのような下賤の者に、言うことなど何もありませんわ……!」
 憎憎しげにそう言う。フローレンスは無言で顔についた唾を拭う。しかし、その顔は嘲弄するような微笑を浮かべている。
 「下賤の者、ねぇ。まぁ、木星の貴族様から見れば、私も平民ということになるのかしら? でも、それを言ったらあなただって同じでしょうに」
 「黙れ」
 シャロンは低く唸った。それを見て、フローレンスは心底楽しそうに続きを言う。
 「確かにあなたは遺伝学的に見れば、ラビニア・フォン・クォーツの娘であり、ネリィ・フォン・クォーツの娘ですわ。でも、あなたのお名前はシャロン・キャンベル。シャロン・フォン・クォーツではない。それは何故なのか? 庶子だから、なんて貴族社会ならよくある話だけど、あなたの場合は違う。その理由は、あなたがコーディネイターだから。いえ、少し違いますわね……あなたが」
 と、フローレンスは一旦言葉を切り、皮肉げに唇を吊り上げた。
 「ラビニア・フォン・クォーツの『人形』だから。持ち主に見向きもされない『捨てられ人形』だから」
 「黙れ!」
 シャロンは叫ぶ。叫ぶだけで何も出来ない。そんな彼女の悔しそうな顔を見下ろして、フローレンスは満足そうに頷いた。
 「『捨てられ人形』なんて肩書きの割にはいい表情をしますのね、あなた。私、そんな顔を見るのが三番目ぐらいに好きなんですのよ。悪趣味なんて仰らないでね? あなたを作った女に比べればマトモなつもりですから」
 その言葉に、シャロンはカッと目を見開いた。今まで一番大きな声で、噛み付くように叫ぶ。
 「黙れ! 貴様、母様を愚弄するつもりか!?」
 並の人間ならそれだけで怯んでしまうほどの、怨嗟に満ちた絶叫。しかしフローレンスは怯むどころか、愉悦の笑みを浮かべるのみである。
 「分かりませんわねぇ。あんなことをされておいて、まぁだ母様母様って……ん?」
 と、フローレンスは何かに気付いたように眉をひそめると、空いた左手をシャロンの胸元に差し入れた。シャロンが反応するよりも素早くロケットペンダントを掴み、首にかかった鎖を引きちぎる。
 「返せ!」
 「ちょっと見せてもらうだけですわ……って」
 と、フローレンスは少し唖然としたような表情を浮かべた。ロケットの中に収められた、ある女性の写真を見て。そしてフローレンスはその顔のまま写真とシャロンの顔を見比べ、不意に「ぷっ」と吹き出した。
 「あはははは、こいつぁお笑いだ、滑稽だなアホらしいな馬鹿みたいだな、でもそれ以上に傑作だよあんた。何の冗談だこりゃ、え、人形ちゃんよ?」
 「返せ! 薄汚い手でそれに触るな、この蛆虫野郎!」
 お互い、違う理由で口調が素に戻っている。そして、やはり違う理由でお互いそれに気付かない様子だった。
 「理解できねぇなぁ人間って。随分長いこと活動してきたけどさ、そんなアタイから見てもちょっとっつーかかなり頭おかしいと思うよあんた。一度病院に行って脳味噌見てもらった方がいいんじゃない?」
 ロケットペンダントをぶらぶらと揺らしながら、フローレンスは楽しくて楽しくて仕方がないというように、シャロンを押さえつけたまま体を揺すって笑った。シャロンは血が流れるほど強く唇を噛んだ。肩を外されても動じなかった瞳に、涙が浮かんでくる。フローレンスは笑いを収め、むしろ哀れむようにシャロンを見下ろした。
 「……何とも屈折してるねぇ。あんたがあの単細胞のネリィの妹だなんて思えないよ。ま」
 と、フローレンスは器用に肩を竦め、
 「コーディネイターなんてこんなもんか。人間に生まれる前から役割持たせようってのがそもそもの間違いなんだな、きっと」
 そして、「さて」と呟き、ロケットペンダントをコートのポケットの中に突っ込んだ。
 「悪いけど、アタイもちょいと忙しくてねぇ。いつまでもあんたとお喋りしてる暇ないのよ。まぁ、本社に連れ帰りゃハワードの変態ジジィ辺りが愉快な手段であんたの口割らせてくれるだろうから、ちょっと同行ねが……」
 言いかけて、フローレンスは不意に表情を緊張させ、勢い良くその場から飛び退った。唐突に自由になったシャロンもまた、ほとんど反射的に転がり、その位置から離れる。
 次の瞬間、何かが砕け散る音が辺りに響き渡った。
 「……かわしたか」
 第三者の呟きが聞こえる。フローレンスは素早く立ち上がり、体勢を整えながら振り返った。
 状況を確認する。先ほどの音の発生源は、地面だ。アスファルトで舗装された道に、亀裂が走っている。その中心に、一人の人間がいた。四建てのビルの屋上から飛び降りつつ、拳を舗装された地面に振り下ろし、アスファルトに亀裂を走らせる存在を人間と呼べるのなら。
 「……おいおいおいおい、冗談だろ?」
 フローレンスは笑った。先ほどとは打って変わって、かなり引きつった笑みだった。
 「ちょっと遊んでたら、とんでもねぇ大物がかかっちまったじゃねぇか」
 呟くフローレンスを横目に、彼は拳を地面に打ちつけた姿勢のまま、嬉しそうに唇を吊り上げた。
 「俺の勘は相変わらず確かだな。お前のような壊れにくい奴がいると、俺に教えてくれる」
 言って、ゆらりと身を起こす。拳から、アスファルトの破片がぱらぱらと地面に落ちる。しかし、頑丈そうな拳自体には、傷一つついていない。
 長身の男だった。全身から闘気だか殺気だか狂気だか、何と表現していいのか分からない、禍々しいものを放っている。男は左眼に好戦的というよりは愛戦的とでも言った方がいい激しい光を浮かべ、じっとフローレンスを見た。
 「女か。今までも何人か驚くほど壊れにくい奴がいたが、女がそれだったのは初めてだな。まあ驚くことでもない。俺はむしろ感動している。お前は俺が今まで会った人間の中で一番、物理的に壊れにくそうだ。お前のような奴がいるとは、宇宙は広いものだな」
 独り言のような言葉は平坦で、ほとんど抑揚がない静かなものだったが、どこか興奮しているような響きを含んでいた。フローレンスは少し皮肉げに鼻を鳴らし、
 「人間、ね。まあいいけど。アタイはあんたのこと、よく知ってるよ」
 「ほう」
 「『隻眼の魔王』オグマ・フレイブ、だろ? そこのお人形さんよりずっと有名だよ、あんた。『白い殺人鬼』クレア・ヒースロー、『血まみれ』ルナ・シーン、その辺の連中と一緒くたに語られる、前の戦争が生み出した化け物の一人だ」
 ある種の賞賛の意すらこめられた言葉。しかしオグマは退屈そうにそれを聞いている。
 「知らんな」
 「ああ。そういうことに興味がないってのも知ってる」
 「どうでもいい」
 「で、どういったご用件で? そちらのお人形さんを助けにきたのかしら?」
 オグマはちらりと、二人から少し離れた壁に寄りかかっているシャロンを見たが、興味なさげに視線を戻し、
 「知らんな。俺にとって興味があるのは、キサマがどれだけの時間、俺の前でそのままの形を保っていられるか。その一点だけだ」
 「ふーん。まあ、人の興味にケチつけるつもりはないけどさ」
 言いつつ、フローレンスはコートの中に隠し持っていた、巨大な拳銃を引き抜いた。
 「お喋りしてる間にこっちの準備は万端だ! テメェこそぶっ壊れやがれ!」
 叫びながら引き金を弾く。正確に頭部を射抜く弾道。一瞬後、オグマは頭から血を噴出して倒れている……はずだったが、
 「……嘘だろ」
 フローレンスは呆然と呟く。硝煙の晴れた先、オグマは先ほどとほとんど同じ姿勢でその場に立っている。握った右手を、顔の正面に上げて。
 「漫画じゃねぇんだぞ……ありえねぇって。銃弾を手づかみだぁ!?」
 答えるように、オグマはにぃっと笑って右手を開く。弾丸が地面に当たって無機質な音を立てた。
 「……一応、説明しておこうか」
 立ち尽くすフローレンスに向かって、オグマは楽しげに語りだす。
 「俺は、壊れにくそうな奴にあったときはそいつを観察して、記憶に留めておくようにしている。壊れる前と壊れていく過程と壊れた後。全ての姿を正確に覚えて正確に再生するためにな。お前が言う『お喋り』は、観察時間の暇を潰すためと、相手の動きを止めておくためのものだ。そうでないと、せっかちな奴がじっくり観察する間もなく突っ込んでくる。それは実に良くない。だから壊したくてうずうずしていても、必ず二分間は相手を観察する」
 「……寡黙だって聞いてたのによく喋ってたのは、時間を確保するためって訳ね」
 「俺の体内時計は実に優秀だ。百分の一秒までなら正確に計測できる」
 「そりゃ便利だな。陸上競技場にでも行ってストップウォッチになってこいよ」
 「さて、ゴングが鳴るまであと五秒。お前は何秒で、どんな風に壊れてくれるかな……?」
 オグマはその異名を体現するのような、壮絶な笑みを浮かべる。舌打ちしたフローレンスが格闘の構えを取ると同時、
 「カン」
 冗談のような呟きと共に、オグマは正面から突っ込んできた。