【ある姫君の暴走】 692氏



 うめき声を発して、ジュナスは目を覚ました。まず視界に入ったのは、ネリィの心配そうな顔だった。
 「あ、目が覚めまして?」
 「ネリィ……」
 ジュナスはぼーっとした目で体を起こし、頭を掻いて「いてっ」と顔をしかめる。
 「こぶができてる……?」
 首を傾げながら、周囲を見回す。そこはグランシャリオ内の医務室で、ジュナスはベッドに寝ていたのだった。ネリィに、
 「何がどうなってんの? 俺は何でこんなとこに?」
 と聞くと、ネリィは決まり悪そうに目をそらし、
 「ええと、それは……」
 と、口ごもった。そのとき、明るい笑い声と共に、白髪の黒人が姿を見せた。白衣を着て聴診器を首に引っ掛け、その上でサングラスをかけている。グランシャリオの船医であるバイス・シュートだ。バイスは前のデスアーミー出現の少し前から休暇を取っていて、最近船に復帰してきたのである。
 「ようジュナス♪ 起きたみたいだな♪」
 歌うような独特なリズムで、バイスが体を揺らしながら喋る。よく見ると、片耳にイヤホンをつけていた。ジュナスはおかしそうに笑って、
 「何か、相変わらずだねバイスさん」
 「患者を診るときぐらいイヤホンは止めていただけません?」
 ネリィが顔をしかめてそう言ったが、バイスは笑い飛ばした。
 「そういつぁ無理ってもんだぜお嬢様♪ 俺は音楽なしじゃ生きられねぇ体なのさ♪」
 「で、バイスさん、俺一体なんでこんなとこに?」
 「覚えてねえのか♪ お前、そこのネリィさんにブン投げられて、壁に頭ぶつけて気絶してたんだぜ♪」
 「え」
 ジュナスがネリィを振り返る。ネリィは顔を赤くして、勢い良く頭を下げた。
 「も、申し訳ありませんでした! 突然明かりが消えて、動転してしまって……」
 「ああいや、別にいいよ。あの時は俺もびっくりしたし」
 慌てて言いながら、ジュナスは頭をさすり、
 「まあ、正直あんまり覚えてないんだけど」
 「ははは♪ ジュナスは脳天気だな♪ 良かったじゃねぇかネリィさんよ♪」
 バイスはリズムに乗って体を揺らしながら、二人に背を向ける。
 「脳の方にも異常はねぇみてだから安心しな♪ 俺はちょいと出かけるが、大丈夫そうだったら勝手に帰っていいぜ♪」
 「うん。ありがとうバイスさん」
 「気にするなって♪ 人類皆兄弟だぜ♪」
 規則正しいリズムで手を振りながら、バイスは医務室を出て行った。途端に、室内は火が消えたような沈黙に包まれる。
 「やっぱり面白い人だよなぁバイスさん。俺も今度ダンスとかやってみるかなぁ」
 冗談めかして言いながら、ジュナスは体を揺らしてみせる。しかし、ネリィは先ほどと変わらず気落ちした顔をしている。
 「ネリィ、あんま気にしなくっていいって。バイスさんも異常はないって言ってたんだし」
 「そんな訳には参りませんわ!」
 ネリィは叫ぶようにして言い、嘆くように額を手で押さえる。
 「まさか、あの程度のことであんなに取り乱してしまうなんて……ああ、私は人間の屑ですわ。蛆虫にも劣るアンチクショウなんだわ」
 「いや、そこまで言わなくても……っていうかアンチクショウってなに」
 「いいえ、その通りなのです! ああ、こんな情けないことでは……どの面下げてフローレンス姉様にお会い出来ると言うのでしょう?」
 やけに芝居がかった口調で、ネリィは悲嘆に暮れる。ジュナスはきょとんとして、
 「え、ネリィが会いに行くって言ってたの、ひょっとしてキリシマさんなのか?」
 「え? ええ、そうですけれど……」
 ネリィも驚いた様子で、
 「知っていらっしゃるの?」
 「そりゃ知ってるよ。ブランド社長の秘書さんでしょ? あれ、そういえば……」
 ジュナスはきょろきょろと辺りを見回し、壁の時計を見る。時刻は十一時を回っていた。
 「……大変だ! ネリィ、約束の時間って十時なんだろ!?」
 「え、ええ、そうですけれど……」
 「何で行かなかったんだよって俺のせいか!? ああ、やばいやばい、やばいぞ……」
 ジュナスは布団を引っぺがし、慌ててベッドから降りようとした。しかし、足をもつれさせて顔面から床にダイビングしてしまう。
 「いててて……」
 「だ、大丈夫ですの?」
 ベッドの向こうから、ネリィが駆け寄ってくる。ジュナスは「だ、大丈夫大丈夫」と笑って体を起こしながら、
 「それより、早く行きなって。今からでも行けば間に合うかもしれないしさ」
 「え、ええ……」
 言いながら、ネリィは顔を曇らせる。ジュナスは眉をひそめ、
 「どうしたんだよ? 久しぶりに会うんだろ?」
 「……二年振りかしら」
 「うわ、そんなに!? じゃ、じゃあ、尚更早く行かなくちゃ」
 言いつつ、ジュナスは医務室の扉に向かって駆け出す。しかし、ネリィはその場を動かなかった。ジュナスは振り返り、
 「どうしたんだよ、早く……」
 「え、ええと……あの……」
 ネリィは俯いて、もじもじしている。ジュナスは時計を見ながらネリィに駆け寄り、
 「ネリィ、早く行かないと……行きたくない訳じゃないんだろ?」
 「あ、当たり前ですわ!」
 「じゃあ何で……」
 そこで、ジュナスはふと何かに気付いたように、
 「……ネリィ、ひょっとして怖いのか?」
 ネリィはびくりと体を震わせたあと、慌てふためいた様子で、
 「ち、違いますわ! 私はお化けなんて……」
 「お化けが、なんて言ってないけど俺」
 「う」
 ネリィの顔が硬直する。
 「……ち、違いますわ、そうじゃなくて、私、私……」
 必死に言い繕おうとするネリィだが、なかなか言葉が出てこない。ジュナスはふっと微笑みながらネリィの肩を掴んだ。そして、涙で潤む彼女の瞳を見つめながら、一言、
 「……ネリィ。俺、笑わないよ?」
 優しい調子の言葉。ネリィの顔がくしゃっと歪む。そのまま、ネリィは俯いて肩を震わせ始めた。ジュナスは慌てて、
 「な、泣かないでよネリィ」
 「だ、だって、私……あんまりにも情けないんですもの……こんな年になってお化けが怖いだなんて……」
 「いや、そんなことないって。誰にだって怖いものはあるって」
 「……じゃあ、ジュナスはお化けが怖いんですの?」
 「怖くないけど」
 「ほらやっぱりぃー! あんなこと言っておいて心の中では私のこと笑ってるんだわそうなんだわぁー!」
 ネリィはベッドにすがり付いてすすり泣き始めた。ジュナスは困ったように頭を掻き、
 「あのー、ネリィ?」
 「ほっといてくださいまし! 誇り高きクォーツ家の娘ともあろうものがこんな恥辱を受けるだなんて、もう生きていられませんわ!」
 感情の迸るままに口走っているようだ。後半を聞いて「あ、やっぱり」と小さく呟きつつ、ジュナスは屈みこんでネリィに語りかける。
 「そんなに気にすることないってネリィ。俺だって、隊長の幽霊とか出てきたら怖いしさ」
 「……ジェシカさんはまだ生きておられますでしょう?」
 少し言葉に詰まりながらも、ネリィはそう言ってくる。ジュナスはどことなくほっとした顔で、
 「いやぁ、あの人ならきっと死んでも『訓練はどうしたー!』って枕元に立つんだぜ。んで死んだから体力無限だっつって俺らが倒れるまで追い掛け回して来るんだよ。うわ、嫌だなーそれ」
 喋っているうちに本気で嫌になってきたらしく、ジュナスは青い顔で、
 「そんなことになる前にお札用意しとかなきゃなぁ。まあ隊長が死ぬなんてあり得ないから使う機会ないだろうけど。ネリィ、今度一緒に買いに行かない?」
 「……そのお札、どこに張るんですの?」
 ちらりと、赤い目でジュナスを見て、ネリィが言う。ジュナスは「うーん」と唸ったあと、
 「あ、あれだ、まず真っ先にミンチ・ドリルに張っておかなきゃ。あれにジェシカ隊長が取り憑いたらなんて、考えるだけでも恐ろしいや」
 「……プッ」
 とうとう、ネリィはベッドに顔を埋めたまま笑い出した。泣くのと笑うのを同時にやっているためか、ときどき咳き込んだりもする。ジュナスは背中をさすってやりながら、
 「……落ち着いた?」
 「……ええ、少しは」
 鼻をすすり上げながら言い、ネリィは体を起こした。ジュナスに頭を下げながら、
 「……取り乱してしまってごめんなさい」
 「いや、いいって。それより、早く行かないと」
 「……でも」
 「やっぱり怖い?」
 ネリィは顔を赤くしながらも、今度は素直に頷いた。ジュナスは難しそうな顔で首を捻り、
 「……あ、そうだ」
 と、名案を思いついたという顔で手を打った。
 「じゃあさ、俺もついてくよ」
 「え、ジュナスが?」
 ネリィが軽く目を見張る。ジュナスは「そうだそうだ、その手があったな」と嬉しそうな顔だ。
 「よろしいんですの?」
 「うん。俺も久しぶりにキリシマさんに会いたいしさ」
 その言葉を聞いたネリィの顔が、急速に硬くなっていった。
 「? どうしたの?」
 「……ジュナス」
 そう言ったネリィの顔は、どことなく悲壮な覚悟に満ちているようだった。
 「やっぱり、私一人で行きますわ」
 「え? いや、別に俺のことは気にしなくても」
 「違いますわ。そういうことではなくて……いえ、ついてきてくださるのは……その、非常に……ありがたいんです、けれど」
 少し顔を赤くしてそう言ったあと、今度は青くなって
 「……死ぬのは私一人で充分ですわ」
 「……はい?」
 訳が分からない、という顔で、ジュナスは聞き返す。ネリィは震える体を押さえつけるように、両手で肩を抱きながら、
 「あ、あのフローレンス姉様との約束の刻限に遅れていくだなんて……そんな真似をしたら、私は……」
 「……あのー、ネリィ? キリシマさんって、そんなに怖い人なの?」
 「そりゃもう!」
 と、ネリィは顔面蒼白で思い出を語りだす。
 「あれは、私が離死手亜に入隊して間もない頃……当時、隊内でもはみ出し者だった男が一人、集会の時間に遅れてやって参りましたの」
 「り、りしてあ? あのネリィ、何の話……」
 「遅刻しても全く悪びれる様子のないその男に、フローレンス姉様が何をしたと思います!?」
 ネリィは青い顔をずいっとジュナスに近づけてくる。ジュナスは思わず仰け反りながら、
 「わ、分かんないけど……」
 首を振った。ネリィは口にするのも恐ろしいという顔で、
 「まず、歯が全部折れるまでその男の顔面を殴打して……」
 「は」
 「気絶しないようにと気をつけながら全身の骨と言う骨を折り……」
 「え」
 「簀巻きにしてバイクで公園中を引き回し……」
 「い」
 「しまいにはそのままコロニーの外へ放り出そうと」
 「う」
 今度はジュナスも青くなった。
 「そ、それで、結局……?」
 「さすがに殺してはまずいだろうと全員で慌てて止めたので、幸い男は死にはしなかったのですけれど……それ以来、我が隊は遅刻者ゼロのチームになったのですわ」
 「そ、そんな怖い人だったのかフローレンスさん……」
 「いえ、普段はとてもお優しくて、何よりも仲間を大事にする素晴らしいお人なのですけれど、その……」
 「怒らせると怖い?」
 「怖いなんて生易しいものじゃありませんわ」
 ネリィは言い切った。数秒、室内が沈黙に満ちる。その間、ジュナスとネリィは無言で青い顔を見合わせていたが、やがてジュナスがふっと笑い、
 「そういう話を聞いちゃ、ますます一人で行かせるわけにはいかないよ」
 「ジュ、ジュナス……」
 いたく感動したような目で、ネリィはジュナスを見つめた。ジュナスはその視線を真っ向から受け止め、
 「死ぬときは一緒だ、ネリィ。何たって仲間だもんな、俺たち」
 と、頼もしく言ってみせた。が、途端に弱気な顔つきになり、
 「ちゃんと謝れば許してもらえるかもしれないしさ……希望は捨てないでおこうよ……」
 「そ、そうですわね……」
 二人は泣きそうな顔で、しばらくの間その場に立ち尽くしていた。

 入室許可を得たブラッドが艦長室に足を踏み入れたとき、エターナは楽しそうにデスクの上の端末を見ているところだった。
 「何をしている?」
 「ブラッドさん。これ、見てくださいよ」
 やたらと嬉しそうに手招きするエターナに誘われるまま、ブラッドはデスクの向こうに回りこみ、モニタを覗き込む。
 「……何だこれは」
 「医務室の映像ですよ」
 モニタには、これから特攻に行くかのような表情で立っているネリィとジュナスが映っていた。エターナは頬に手を当てて微笑み、
 「若いっていいですねぇ……」
 どうやら、ネリィとジュナスの様子をずっと見ていたらしい。防犯及び防衛の必要上、艦内の至るところに小型の監視カメラが仕掛けてあるのだ。もちろん船員の個室やトイレ、更衣室などには設置されていないが。
 「……暇人が」
 呆れた様子でブラッドが言うと、エターナは軽く頬を膨らまして、
 「暇じゃありませんよー。ようやっとお仕事がひと段落つきそうだったので、ちょっと息抜きに艦内をモニターしてただけですよー」
 エターナはデスクの脇にある書類の山を指差してから、
 「だいたい、情報収集が趣味だなんて言ってる人に文句言われたくないですよ」
 「目的意識の違いだ。生憎、私は野次馬に人生を賭けているつもりはない」
 「私だって賭けてません。ところで……」
 と、エターナは少し首を傾げ、
 「何か御用ですか?」
 「……まあ、新情報といったところか」
 エターナの目が一変して鋭くなった。
 「何か、分かったのですか?」
 「偽装船の情報だ」
 「偽装船?」
 「ああ。この数ヶ月ほど、民間の輸送船などを装った船舶が、頻繁に地球圏に出入りしている」
 「……木星からの船、ですか?」
 「それだけではないが、まあその方面からの船が中心になっているな」
 「それで、積荷は?」
 「言うまでもないだろう」
 ブラッドは肩を竦める。エターナはため息を吐いて、
 「……そんなことをしている場合ではないと言うのに……人間というのは、いつになっても争いを忘れられない生き物なのですね……」
 「そんな哲学には大して興味がないが……私も、聞きたいことがあってな」
 「? 珍しいですね」
 「最初に交換条件と言ったろうが。今ので、私が提供した情報と貴様から得たい情報の価値がちょうど吊り合ったのでな」
 素っ気無い物言いに、エターナは苦笑する。
 「どういう基準なんですか、その情報の価値って……それにしても、変なところで律儀ですよね、ブラッドさんって」
 ブラッドは小さく鼻を鳴らした。
 「フン……貴様ほどではないさ。もう覚えている者もいない過去の盟約に、一体あと何百年従うつもりなのだ?」
 その言葉に、エターナは目を細めた。口元に淡い微笑が浮かぶ。
 「そう……そんなことも、ありましたね」
 ブラッドが怪訝そうに眉を傾ける。
 「今は違うとでも?」
 「少なくとも、盟約があるからというだけで、こんなことをしているという訳ではありませんね」
 エターナは困ったように笑い、
 「ところで、聞きたいのはそんなことですか?」
 「いや、違う。が……」
 ブラッドは首を振ってから少し考え込むと、くるりと踵を返した。エターナは少し慌てて立ち上がり、
 「え、どうしたんですか!?」
 ブラッドは肩越しにちらりとエターナを見て、
 「交換条件だと言ったろう。今聞いたことで、お互いにやり取りした情報の価値が吊りあわなくなった」
 「……私が勝手に話しただけなんですけど」
 「理由が何だろうと、私がお前に何かを聞いたことに変わりはない」
 ブラッドはあくまでもこだわりを崩さない。エターナは呆れた顔で、
 「……ホント、ブラッドさんって変な人ですね」
 ブラッドはにやりと笑い、
 「私なりの美学というやつだ。ではな。ああそうそう」
 と、ブラッドは外に足を踏み出しかけたところで一度振り返った。
 「一つ言っておく」
 「何ですか?」
 「覗き趣味はババアの証拠だぞ」
 「誰がババアですか!」
 怒鳴るエターナには構わず、ブラッドは悠然と部屋を出て行った。「もう」と、エターナはチェアに座りなおし、少しの間、ぼんやりと宙を見上げた。そして、おもむろにデスクの引き出しを開けて写真立てを取り出した。中には、精悍な顔つきの男性が微笑んでいる写真が収められていた。エターナは静かに微笑んだ。
 「ハルト……今でも、私を見ていてくれますか……?」
 呟き、目を閉じる。数秒そうやってから、自嘲気味に笑った。
 「何も聞こえない、か。幽霊なんていないということなのか、それともやはり私はNTの出来損ないにすぎないということなのか」
 エターナは写真立てをしまいこみ、気持ちを切り替えるように首を振った。そして、ため息を吐く。
 「……さて、地球連合の偉い人たちに、輸送船に関する警告を出しませんとね……」
 やれやれ、という表情。エターナはふと、端末のモニターに目をやる。ジュナスとネリィが、どことなくぎこちない足の運びで医務室から出て行くのが見えた。エターナは穏やかな目でそれを見守りながら、
 「こらこらネリィさん、ずいぶん遅刻していますよ?」
 悪戯っぽく呟き、エターナは「仕方ないですね」とでも言いたげな表情でメーラーを起動した。