【ある姫君の暴走】 692氏
宇宙に浮かぶコロニー内とは言え、昼間もあれば夜もある。ジュナスとネリィは、街灯の明かりが照らし出す道を歩いていた。現在時刻は十二時を過ぎている。現在二人がいるのはオフィス街だったが、さすがにこの時間ともなればほとんどのビルから明かりが消えてしまっている。帰宅ラッシュもとうに過ぎ、人の気配も全くない。
「なぁネリィ、そんなにビクビクしなくたって大丈夫だって」
困ったように言いながら、ジュナスは後ろを振り返る。
「そ、そんなことではいけませんわジュナス。お化けバイクが来たときに逃げ切れませんわよ!」
緊張した声で言うネリィは、ジュナスの服の裾を掴んで後ろからついてきている。いつでも逃げ出せるようにと身を屈め、きょろきょろと周囲を見回しながら歩くその姿は、まるで全身の毛を逆立てている猫のようである。ジュナスは後頭部を掻きながら、
「って言うかさ、相手はバイクなんでしょ? だったら、走って逃げだってすぐ追いつかれるんじゃないの?」
「うー……それはそうですけれど……」
赤い顔でネリィが呻く。ジュナスはため息を吐いて、
「だからワッパかエレカ借りようって言ったのに」
「あんな話を聞いたあとで!? もしその借りたのがお化けワッパとかお化けエレカとかで、突然自分の意思で動き出してビルとかに突っ込んじゃったらどうしたらいいんですか!?」
「どうしたらいいんだろうね」
興奮して喚くネリィに、ジュナスは首を傾げるしかない。
「でも、幽霊って、そんなに怖いもんかなぁ」
不思議そうにそう言うジュナスに、ネリィは拗ねた様子で口を尖らせた。
「フン、どうせ私は臆病な女ですわ。笑いたければ存分に笑えばよろしいでしょう?」
「いや、そういう意味じゃなくて。なんていうかさー」
ジュナスはぽりぽりと頬を掻き、
「幽霊って、本当にいるなら会ってみたいと思わない?」
「え」
「そりゃ、隊長の幽霊とかは勘弁だけどさ」
笑ってそう言うジュナスに、ネリィは怪訝そうに、
「……誰か、お会いしたい方でもいらっしゃるんですの?」
「うーん」
ジュナスは少し考えてから、
「父さんと母さん、かな」
「……ご両親? では」
「うん。俺がちっちゃいころに事故で死んじゃってさ」
事も無げにジュナスは言う。あんまり覚えてないから、もう悲しくはないんだけど、と続け、
「ただ、ちょっと会って話してみたいかなあって。何となく、心配性だったような記憶があるんだよね、母さん」
「だから、自分は元気だと伝えたいと?」
「うん、まあそういうこと」
ジュナスは微笑みを浮かべて頷き、
「ネリィはさ、幽霊がいるなら会いたい人っている?」
「私、ですか?」
ネリィはほとんど間を置かずに、
「お父様に……」
と答えた。ジュナスは少し驚き、
「え、じゃあネリィの父さんも?」
「ええ」
ネリィの瞳が憂いに陰る。ジュナスは少し申し訳なさそうに、
「ごめん、聞いちゃいけないことだったか」
「いえ、そんなことはありませんわ。ただ、父にはもう会えないということを再確認すると、少し寂しくて」
「どんな人だったの、ネリィの父さん。ああ、話したくなければいいんだけど」
「構いませんわ。そうですわね……」
ネリィは思い出すように遠くを見て、懐かしそうに微笑んだ。
「立派な方でしたわ。優しくて思慮深くて、責任感が強くて。何よりも、誇りに満ち溢れていましたから」
「尊敬してたんだ?」
「ええ、もちろん」
ネリィは楽しそうに頷く。
「私、幼い頃は政治家になるつもりでしたのよ。父の仕事をお手伝いしたいと思って」
そこまで言って、ネリィはふと思い出したように、
「そういえばジュナス、あなた、私の家のことを知っているご様子でしたけれど」
「え? ああ、あれね。ほら、ちょっと前に、ネリィの名前が書いてあった筒を届けたじゃない」
シャロンからもたらされた手紙入りの筒のことだ。ネリィは頷いた。
「あれに紋章が描いてあっただろ」
「では、あの……クォーツ家の紋章のことを知っていらしたの?」
ネリィは軽く目を見張った。ジュナスは嬉しそうに頷きながら、
「俺、住んでたコロニーで新聞配達のアルバイトやってたときがあってさ。それで、毎朝でっかいお屋敷の前を通ってたんだけど、そこの門にあの紋章が描いてあって」
「多分、それは私の家ですわ……でも、そうすると」
ネリィは幽霊のことも忘れたように、ジュナスの前に回りこみ、彼の顔を指差した。
「私とあなた、ひょっとして同郷だったんですの!?」
「そうなるね。シェルドもだけどさ」
ジュナスは嬉しそうに笑い、頭の後ろで両腕を組んだ。
「いやぁ、俺も最初に気付いたときはびっくりしたよ。こんな偶然なんてあるもんなんだなって」
「そうですわね」
ネリィも呆気に取られている様子だ。
「これってあれだよな。奇跡ってやつ?」
はしゃいだ様子で、ジュナスは言う。その隣を歩くネリィの頬も、少し赤みを帯びてきた。
「ホント、偶然ってあるものですわね。同じコロニーの出身者、しかもここから遠く離れた木星圏のコロニーの出身者が、同じ会社の同じ船に乗り込んでいるだなんて」
二人はしばらく無言で歩いた。どちらも、頬を上気させ、少し興奮した面持ちである。しかしジュナスは不意に、
「あ」
と、何かに気付いた様子で口を開けた。
「どうしたんですの?」
ネリィが不思議そうに首を傾げる。ジュナスは「しまった」という表情で、
「ってことは、ネリィって貴族のお姫様だったんじゃないか!」
「? ええ、そうですけれど」
特にためらいもなく、ネリィは頷く。
木星圏は、地球からかなり離れているだけあって、文化様式も地球のそれとは大きく異なる。彼等木星公国の民は、政治を担当し国を先導する者を貴族と呼び表し、一般市民を平民と称しているのである。
ジュナスは「参ったなぁ」と頭を掻きながら、
「いや、俺、貴族じゃないからさ。母さんたちが死んでからはずっと孤児院暮らしだったし……ネリィみたいな身分の高い人と離すのって、やっぱりまずいんじゃないのかなぁ」
すっかり困りきった様子のジュナスに、ネリィは小さく苦笑を零す。
「それは木星圏でのお話でしょう? ここは地球圏、今の私たちは貴族のネリィ・フォン・クォーツと平民のジュナス・リアムではなくて、単なる一会社の同僚同士に過ぎませんわ。そんなこと、気にしなくてもよろしくてよ」
「そう? そっか、良かったぁ」
ジュナスはほっと息を吐く。ネリィは怪訝そうに、
「どうしてそんなに心配だったのです?」
「ん……いや、昔、孤児院の仲間が貴族の子供と揉め事起こしちゃってさ。それでいろいろ大変だったから」
「揉め事……一体、どんな?」
「何か、道でぶつかったとか何とか。きっかけは些細なことだったらしいけど」
ネリィは眉を吊り上げた。
「あなたは私がそんなに心の狭い人間だと思ってらしたの!? 侮辱ですわ!」
「ご、ごめん。そういうんじゃないんだけど。その時以来、俺らの間じゃ『貴族に逆らったらひどい目に遭わされる』っていうのが共通の認識だったから、つい身構えちゃうんだろうなぁ」
慌てて謝るジュナスに、ネリィはため息を吐いた。
「そうでしたの……人の上に立つ者として、その名に恥じぬよう振舞うのが貴族の役目だというのに。情けない限りですわね」
ネリィの表情が暗くなったのを見て、ジュナスは慌ててフォローに入る。
「あ、でもさ、貴族だっていろいろだって分かったよ、今。ネリィはいい人だし、それにネリィの父さんも立派な人だったんだろ?」
「え、ええ……私はともかく、父は貴族の鑑のようなお人でしたわ」
「へぇ、そうなんだ。じゃあさ、ネリィの母さんって」
「人間の屑ですわ」
一転して不機嫌な表情になったネリィが、吐き捨てるように言う。
「強欲で、自分勝手で、人を人とも思わない……あんな女、さっさとくたばって地獄に落ちればいいんだわ」
瞳に激しい怒りをたぎらせ、ネリィは呪うように言う。ジュナスは呆気に取られた。ネリィははっとして、
「あ、ごめんなさい。あの女のことを思い出したら、つい」
「え、あ、いや……そんなに、嫌いなんだ?」
ためらいがちに聞いてくるジュナスに、ネリィは迷いながらも頷いた。
「正直言って、顔も見たくありませんわ。そもそも、私がこんなところにいるのも、母様に反発して家を出たからで……」
言いかけて、ネリィはふと苦笑する。ジュナスは目をぱちぱちさせた。
「どうしたの、急に」
「いえ、こんな風にペラペラと自分の事情を話しているのがおかしくて。どうしてかしら、ジュナス。あなたといると、つい何でもかんでも話してしまいそうになりますわ」
ネリィは困惑しているように言う。しかし、表情に不快さはない。ジュナスは首を捻り、
「うーん、やっぱ、同郷だからじゃない? だから少し安心しちゃってるんじゃないのかなぁ」
「そう? そうかしら……」
ネリィは不思議そうに頬に手を当てた。それから、思いついたような表情で、
「ね、ジュナス。でしたら、あなたの家のことも話してくださらない?」
「え、俺の家?」
ジュナスが驚いた様子で、自分の顔を指差す。ネリィは好奇心に満ちた瞳で頷いた。
「そう。あなたの。孤児院なのでしょう?」
「まあ、ね。だけど、あんまり面白くないと思うけどなぁ」
「興味がありますのよ。どんな環境で育ったら、あなたみたいな人になるのか」
「何それ……まあいいや。んーと……」
ジュナスはぽりぽりと頬を掻き、思い出すように目を上に向けながら、
「とりあえず、割と貧乏だったかなぁ。時々ご飯出ない日とかあったし、壁とかもボロボロだし、何より人が多いから狭かったしさ」
「どのぐらいいらしたんですの?」
「俺をいれて……うーんと、子供が十三人ぐらい、かな」
ひいふうみい、と指折り数えて、ジュナスは言う。ネリィは少し驚いた様子で、
「そんなに?」
「うん、まあ。時期によっても違うんだけどね。時々養子にもらわれてく奴もいたし。俺とシェルド、それからパティっていう女の子の三人が一番年長でさ。ちっちゃい子とかの世話もしてたけど、これがうるさくてさー。ホント、騒がしい毎日だったよ。まあ、今だってその点は大して違いがないけど」
「ふふ、そうですわね。特にあなたの周りには艦内でも一番やかましいのが揃ってますもの」
話しながら、二人は大通りを右に曲がる。そこもまだいくらか広い通りだったが、辺りはしんと静まり返っており、聞こえてくるのは二人の話し声と靴音だけだ。
「それと……ああそうそう、この人のことは話しとかなくちゃな。俺らの親代わりだった人。グレッグっていう名前なんだけど」
「グレッグさん?」
「そう、グレッグおじさん。どんな人だと思う?」
「ん、と。孤児院の院長さんですから、優しい風貌のご老人のような」
ネリィがそう言うと、ジュナスはおかしそうに笑い、
「全然違うよ。もう熊みたいなでっかいおじさんでさ。その上顔が凶悪なもんだから、ちっちゃい子おんぶして買い物なんかに行こうもんなら、間違いなく通報されてたと思うよ」
「まあ、そんな人が?」
「そ。しかも加減知らないから、頭撫でられると首が折れそうになるし、抱きしめられると背骨が砕けそうになるし」
「ぱ、パワフルなお人でしたのね……」
壮絶な体験談に、ネリィの笑顔も少し引きつり気味である。ジュナスは苦笑いを浮かべて、
「まあ、すっごいいい人だったから、皆グレッグおじさんのことが大好きだったんだけどね。でも、そんなたくましいおじさんが、俺が十二のときにぶっ倒れてさ」
「え、どうして?」
「過労……っつーか、栄養失調かな? 俺らを飢えさせまいと、自分の食事を抜いたりしてたんだってさ」
「まあ、ご立派な方でしたのね」
「うん。でも、俺たちおじさんのすぐ傍にいたのに、そんなの全然気付かなかったんだ。それが凄いショックでさ。それでしばらく、シェルドと一緒に新聞配達とかいろいろやったんだけど、全然足しにならなくて。で、いろいろ考えた挙句、シェルドを誘って孤児院を出ることにしたんだ。そうすりゃ食い扶持が減って楽になると思って。パティには黙ってた。孤児院の皆にはお母さんが必要だと思ったから。シェルドはちょっと驚いてたけど、『君みたいなのを一人で行かせるなんてぞっとするよ』なんて言いながらも、結局はため息混じりについてきてくれたんだ。それから何日か宇宙港の周りで野宿して、オンボロの貨物船に潜り込んだ。密航はすぐばれちゃったけど、船長さんが優しい人でさ。俺たちの事情を聞いたら、地球圏までは乗せてってやるって言ってくれたんだ。それから色んなコロニーを転々として、色んな仕事をやった。それで、1年ぐらい前にキリシマさんに誘われて、Gジェネレーションに入ったって訳」
歩きながら夢中で話すジュナスを、ネリィは黙って見つめていた。ジュナスは「あ」と声を漏らし、慌てて、
「ごめん、何か俺ばっかり喋っちゃって」
「いいえ、とても……楽しいお話でしたわ。お聞かせ下さって、ありがとうございました」
そう言って、ネリィはふわりと微笑んだ。ジュナスは照れくさそうに鼻の頭を掻き、
「そ、そう? ……でも、何だかな」
ジュナスはくすぐったそうに目をそらす。ネリィは不思議そうに首を傾げ、
「どうかなさいました?」
「いや、何かさ。今の笑い方見てたら、やっぱネリィってお姫様なんだなぁって思って」
「突然何を仰いますの」
ネリィは口元に手を当てて、くすくすと笑う。ジュナスは首筋に手をやって、困った様子で、
「ホント、どうかしてるや。こんなこと言うなんて」
照れ笑いを浮かべながら、頭上を見上げた。コロニー内とは言え、夜空にはたくさんの星が輝いている。ジュナスはうんと背伸びして、
「あー、何か、急に孤児院に帰りたくなってきたなぁ」
ネリィの唇が優しく緩んだ。
「あんなにたくさん話したからですわね」
「ネリィは家に帰りたいとか思わないの?」
ちらりとネリィを見て、ジュナスが聞く。ネリィは瞳に懐かしげな色を浮かべ、
「そう、ですわね。そう思うこともありますわ。会いたい人だっていますし……でも」
「でも?」
ネリィの横顔に、厳しい感情が現れた。
「あの女が……ラビニアが生きている限り、私があの家に戻ることはないでしょう」
「ラビニアって……」
「あの女……いえ、母様の名前ですわ」
憎憎しげに、ネリィは答えた。ジュナスは困ったように再び頭上に目を移し、
「そっか。そんなに嫌いなのか」
「ええ」
ネリィは即答する。ジュナスは苦笑しながら、
「でも、家自体は嫌いじゃないんだろ?」
「それは、ね。あの屋敷には、私の思い出が詰まっていますもの」
再びネリィの顔が穏やかになったのを見て、ジュナスはほっと息を吐き、
「会いたい人って、誰?」
「そうですわね……」
ネリィはあごに指を当てて考え出した。
「まず、下男……と言うか世話係だったベイツでしょうね。いろいろ迷惑かけましたし、屋敷を出るときには相談も何もしませんでしたから。きっと、心配していると思いますわ」
「ふーん……あ、そうだ。ネリィは兄弟いないの?」
急に思いついたように、ジュナスは聞いた。ネリィは目を瞬かせる。ジュナスは両手を広げて、
「ほら、俺、兄弟がたくさんいたみたいなもんだからさ。帰ったらあいつらとも会いたいし……それで、ネリィはどうなのかなと思って」
「兄弟……」
ネリィはどこか遠くでも見るように、呆然と呟いた。足も止まっている。意識がどこか遠くに行ってしまったようだ。ジュナスは怪訝そうに、
「……ネリィ?」
呼びかけられて、ネリィははっとしたようだった。慌てて表情を取り繕い、再び歩き出しながら、
「ごめんなさい、何でもありませんわ。それで……兄弟、でしたわね」
「うん」
ネリィは少し迷いながらも、
「……妹が、一人おりますわ」
「へぇ、妹か……」
呟き、ジュナスは少し考え込むような表情になった。ネリィが眉をひそめて、
「どうかなさいました?」
「いや、ネリィの妹って……やっぱり、バイクとか乗り回したりする訳?」
それを聞いて、ネリィは一瞬きょとんとしたあと、ぷっと吹き出した。
「全然違いますわ。あの子は私と違って……そう、おとなしい、貴族の令嬢らしい子でしたもの」
「ん……まあ、確かにネリィはおとなしくはないけど。そっか、そんな子か」
「ええ。最初に会ったとき、あの子はまだ十歳にもなっていなかったはずですけれど……その当時から、すぐに社交界デビューできるほど、完璧に淑女としての教養を身につけておりましたのよ」
「最初に会ったとき?」
ジュナスは不思議そうに首を傾げる。ネリィは頷き、
「事情は未だによく分からないのですけれど……私とあの子、その年になるまで一度も会ったことがありませんでしたのよ」
「へぇ。何か、変な姉妹だったんだな」
「顔も知らない兄弟だなんて、貴族の世界ではよくあることでしてよ。でも、そんな姉妹だったからこそ、私たちはあまり似ていなかったのかもしれませんね」
ネリィは懐かしそうに目を細める。
「本当に、あの子は何をさせても完璧にこなしてみせた。紅茶の淹れ方も、ダンスの作法も、編み物や縫い物だって。そうそう、あの子、特にヴァイオリンを弾くのが得意でしたのよ。私もよく聞かせてもらっておりましたわ」
ネリィは楽しそうに語る。ジュナスは興味津々に聞いていたが、ふと、
「ネリィは弾かないの?」
と聞いた。ネリィは決まり悪そうに目をそらし、
「……殴るのは得意でしたわ」
「……ヴァイオリンで?」
「……ええ」
ジュナスはプッと吹き出した。ネリィが唇を尖らせる。
「ご、ごめんごめん。何か、想像したらおかしくてさ。でも、ホントに似てない姉妹だったんだなぁ」
「そう、ですわね。何よりも、あの子は美しかった。まるで、人形のように……」
呟きながら、ネリィは俯き、目を細める。
(……違う。人形のように、じゃない。あの子は、人形そのものだったんだわ……)
思い出す。森を駆け抜け、別館のあの部屋の窓を覗き込むと、どんな日でも必ずシャロンがいた。いつも同じようにヴァイオリンを弾き、ダンスの練習をし、真剣な表情でお茶を淹れていた。まるで、それが自分の使命だとでも言うように、シャロンはあの部屋から一歩も出なかったのだ。
(……一体、何のために? いえ、誰のために?)
そこでふと、ネリィは自分が深く考え込んでいたことに気がついた。そして同時に、ジュナスが黙り込んでいることにも。
「ジュナス?」
見ると、隣からジュナスの姿が消えている。振り返ると、彼は数メートルほど後方で、ぽかんと口を開けて立ち止まっていた。
「? どうかなさいました?」
答えはない。何か、前方に気を取られているようだ。ネリィは振り返り、再び前を見た。
二人で話し込んでいる内に、かなりの距離を踏破していたようである。そこはもう既に、Gジェネレーションの支社から100mも離れていない地点だった。両脇には明かりの消えた雑居ビルが立ち並び、等間隔で設置された街灯だけが、道路をぼんやりと照らし出している。
だが、そんな物を見ている余裕は、今のネリィにはなかった。ジュナスが見ているものを、ネリィも目撃してしまったのである。
それは、バイクだった。人を乗せていないバイクが、歩道の真ん中をゆっくりとこちらに向かってきている。
「交通法違反だー……」
ジュナスが的外れなことを呟く。しかし、ネリィからの突っ込みはない。ネリィの目は大きく見開かれ、視線は無人のバイクに釘付けになっていたのだ。全身が硬直し、顔を嫌な汗が滑り落ちていく。その間にも、バイクは着実に二人との距離を詰めてくる。大型で、派手なカラーリングを施されたバイクだった。排気ガスを出しているようには見えないが、何故か低いエンジン音だけが聞こえてきている。どうやら、わざわざスピーカーをつけて偽者のエンジン音を鳴らしているらしい。
その時、前方5mほどの地点で不意にバイクが停止した。少し考えるような間を置いて、前部のライトに明かりが灯る。強い光が、呆気に取られて立ち尽くす二人を明るく照らし出した。
そして、獣の咆哮のようなバイクの擬似エンジン音と、振り絞るようなネリィの悲鳴が、重なり合って真夜中のオフィス街に響き渡った。