【ある姫君の暴走】 692氏



 どこか、ずっと遠くのほうから聞こえてきた悲鳴に、シャロンは薄らと目を開けた。
 「……ネリィ姉様?」
 呟き、簡素なベッドの上で身を起こす。窓のブラインドをそっと押し開いたが、暗闇に沈む町には特に変わったところは見られなかった。
 「……夢の中で聞いたのかしら?」
 シャロンは小さく首を傾げ、するりとベッドから降り立った。身支度を整え、同室者にばれないように、音も立てずに部屋を出る。隠れ家……廃墟と化したビルの中は、ひっそりと静まり返っていた。短い廊下を渡り、階下に下りる。
 「あれ、どうしたの?」
 ロビーに降り立つ前に、声をかけられた。元は受付が座っていたであろうカウンターに、小柄な少女が腰掛けていた。肩をむき出しにした露出の高い服を着ている、口元のほくろが印象的な少女である。階段から降りてきたシャロンを、少し驚いて見ていた。
 シャロンはそんな少女を汚いものでも見るような表情で一瞥したあと、
 「少し寝苦しかったものですから。お散歩してきますわ」
 「ダメー!」
 少女……パティは、勢い良く椅子から立ち上がった。
 「ダメだよ、そんなことしちゃ。見つかったら大変だもん。今のアタイらの状況、分かってない訳じゃないっしょ?」
 口調はのんびりしているが、瞳は真剣そのものだ。シャロンは不機嫌そうに鼻を鳴らし、つかつかとカウンターに歩み寄る。パティを昂然と睨みつけ、
 「お黙りなさい。あなたごときが、この私にそんなことを言える身分だとでも思っているのですか? 身の程をわきまえなさい」
 パティは少し困った顔で、
 「えー……でも」
 「あら、まだ何か言いたいことがありまして? それとも、後で鞭打ちされるのをお望みかしら?」
 シャロンは嗜虐的な微笑を浮かべてそう言う。パティは嫌そうな顔をしながらも、
 「だけどさ、こんな夜中に女の子一人で出歩くなんて、危ないと思うけどなぁ」
 「女の子?」
 シャロンは怪訝そうに呟いたあと、口元に手を当ててさもおかしそうに笑い出した。
 「オホホホホ、何を言い出すのかしら、この小娘は? 私とて軍人ですわよ。下賤の輩など、この身に指一本触れることなく返り討ちですわ」
 「うーん……いや、そうだとは思うんだけど」
 一応認めながらも、パティは腕を組んで首を傾げ、
 「何となく、嫌な予感がすんだよねー……」
 呟くように言った途端、突如としてシャロンの瞳に怒りの火花が散った。彼女のしなやかな手が宙を走り、パティの頬を激しく打ち据える。乾いた音が廃ビルのロビーに響き渡った。驚きのあまり言葉を失っているパティを、シャロンは憎悪に歪んだ表情で見下ろした。
 「……フン、嫌な予感がする? 自分はニュータイプだからこの私よりも優秀だとでも言うおつもり?」
 「そんなんじゃ」
 「お黙り!」
 抗弁しかけたパティの頬に、シャロンは再び平手を見舞う。赤くなった頬を押さえて黙り込んだパティを、シャロンは刺々しい視線で睨みつけながら、
 「これだから、下賤の者など信用できないんですわ……あなたなど、本来ならばこの場にいることなど到底できない卑しい存在なのですよ? 私の下女として使うのも憚られるほどの、ご自分の身分の低さをお忘れかしら?」
 パティは反論せず、シャロンの傲慢な物言いをただ俯いて聞いている。シャロンはサドッ気のある、しかし余裕のない引きつった笑みを浮かべ、
 「それともなぁに、かあさ……ラビニア・フォン・クォーツ様があなたに特別目をかけているから、何か勘違いされてらっしゃるのかしら? あなたがこの私よりも尊い存在だとでも?」
 喋っている内に、シャロンの声は小さな震えを帯びてきた。怒りを湛える瞳は潤み、表情は苦痛を感じているように歪む。
 「そもそも、あなたのような少し勘がいいだけの汚らしい女がこんな、母様に近いところにいるのが間違っているんだわ……私が母様に見て頂くために、どれだけの……!」
 もはや、シャロンはパティなど見てもいなかった。追い詰められた表情で目を見開き、我を忘れたように憎憎しげに呪詛を吐き続ける。パティは痛ましげにそれを見つめていたが、やがて耐えられなくなったように、
 「シャロン……」
 小さな呼びかけに、シャロンはびくりと大きく体を震わせ、再びきっとパティを睨みつけた。瞳に憎らしげな色を浮かべながら、あえて余裕の表情を作り、両腕を組んでパティを見下ろす。
 「……とにかく、あなたなど本来ならば汚らしい路地裏で寂しく野垂れ死にするような身分でしてよ。そんなか細い存在であるあなたが、ラビニア様の崇高なご慈愛により奇跡的にこの場に存在を許されているのだと……そのことを、よくよく胸に刻んでおくことですわね」
 パティは何か言いたげに、上目遣いにシャロンの顔を見上げていたが、やがて小さく、
 「はい」
 と頷いた。シャロンは気にいらなそうに鼻を鳴らしてパティを一睨みすると、踵を返してビルの入り口から外へと出て行った。何かから逃れるかのような急ぎ足の靴音が、夜の闇の中へ遠ざかっていく。
 パティはしばらくの間、シャロンが去っていった方をやりきれない瞳で見つめていた。