【ある姫君の暴走】 692氏
闇に包まれた路地裏を、シャロンは一人で歩いていた。コロニーの中だけあって、夜の空気は快適な気温に保たれている。静まり返った路地裏に、シャロンの靴音だけが小さく響き渡る。他に、音は聞こえてこなかった。
「……気のせいだった、か」
シャロンは不機嫌そうに鼻を鳴らし、ふと前方を見やった。路地は少し遠くの方に立ち並ぶ家屋により曲がり角になっていたが、そのずっと向こう側には、このコロニーの宇宙港が存在している。そして、そこにはGジェネレーションの所有する、宇宙戦艦グランシャリオが停泊しているはずだった。シャロンは目を瞑り、苛立たしげに軽く胸を押さえた。
「気が高ぶっている……ネリィ姉様が近くにいるから?」
シャロンの目つきが鋭くなった。
「今更、あんな女が私の障害になるものか。母様に反発して家を捨てたような女が……」
呟く声には苛立ちが混じっていた。シャロンは忌々しげに舌打ちを漏らす。
そのとき、多数の人間の靴音と、下品な笑い声が聞こえてきた。派手なアクセサリで着飾った一団が、前方の曲がり角から姿を現した。十人に満たない少数の集団で、髪を派手な色に染めたいかにもチンピラといった感じの風体をしている。先頭の一人がシャロンに気付き、口笛を鳴らして後ろを振り向いた。
「リーダー、女ッスよ」
「なに?」
訝しげな声と共に、一団の中から一人の男が抜け出してきた。傲慢な光を瞳に宿した、つり目の男だ。他の男たち同様派手な格好をしている。彼はシャロンの数歩手前で立ち止まり、物珍しげにじろじろと彼女を眺めた。
「おいお前、こんなところで何をしてるんだ?」
「リーダーリーダー、この時間に女が一人きりでこんなところを歩いてる理由なんて、一つしかないッスよ」
「なに?」
男は今ひとつ話が飲み込めない様子で眉をひそめる。先ほど進言した子分が、にやにやしながら腰を前後に振ってみせた。男はようやく理解したらしく、
「ああ、そういうことか」
と、いやらしい笑みを浮かべた。他のチンピラたちも口笛を吹いたり笑い声を上げたりして好き勝手に騒ぎ立てる。シャロンの目があからさまな不快の色に染まったが、男は気付かない様子で近付いてきた。
「ふん、こんな夜中に男を誘うなんて、可愛い顔に似合わず好きなんだな、お前」
男は無遠慮に手を伸ばしてくる。シャロンは表情を変えずにそれを払いのけた。男の顔が怒りに歪む。
「お前っ……どういうつもりだ、自分から誘っておいて!?」
シャロンは無言で、ハエでも見るような鬱陶しげな目つきで男を睨んでいる。男は幾分か冷静さを取り戻した様子で、気障ったらしく髪をかきあげ、
「ふん……まあいいさ。どうやら、この俺が誰だか分かっていないらしいからな。いいかよく聞け、俺はこの一帯を支配してるチームのリーダー、ニール……」
得意げな口上を最後まで聞くことなく、シャロンは男の脇をすり抜けて歩き出した。露骨に無視された男……ニールは、ついに怒りを爆発させ、
「おい!」
と叫んでシャロンの肩をつかもうとしたが、その前にシャロンが動いた。
肘鉄、裏拳、足払い。流れるようなシャロンの攻撃により、ニールは無様に地面に叩きつけられる。さらにシャロンは足でニールを仰向けにし、彼の股間を容赦なくヒールで踏みつけた。
声にならない悲鳴が響く。子分たちは間抜けに口を開けていた。あまりに速い展開についていけなかったらしい。
シャロンはそんな一団に一瞥もくれず、靴音を響かせてその場を立ち去った。後に残されたのは、困惑した表情で顔を見合わせる子分たちと、ぴくぴく痙攣しながら泡を吹いて気絶しているニールのみだった。
走り続けてすっかり疲れていたためか、ジュナスは途中でネリィを見失ってしまった。
「全く……ネリィの奴、何のつもりなんだ? いきなり走り出したと思ったら……」
道路の真ん中で立ち止まり、ジュナスは息を整える。そこは周囲に倉庫が密集する区画だった。宇宙港のすぐ近くである。ネリィが走り去った方向には、宇宙港があるのだ。
「一旦帰るって感じでもなかったしな、あれは。どうすんだろ、まだキリシマさんにも会ってないのに」
ジュナスは額の汗を拭い、息を吐いた。
「とりあえず、俺も船に戻って……」
言いかけたとき、ジュナスの耳に異音が聞こえてきた。今日散々聞かされて、既に聞きなれた感もある、バイクのエンジン音である。
「追いかけてきたのか、あいつ?」
後ろを振り返ったが、道路の両脇に立ち並ぶ倉庫群以外は、何も見えない。それもそのはず、音は逆方向から聞こえてきていた。
「回り込まれた?」
しかし、よく聞くと先ほどの幽霊バイクが発していた唸り声のような音と、今聞こえている音には差異があった。こちらの方が荒々しい響きだ。
「何だ……?」
ジュナスが首を傾げたとき、道路の向こうから、音の発生源が姿を現した。
やはり、バイクだ。しかし、先ほどの幽霊バイクではない。漆黒のボディに派手なカラーリングを施したそのバイクは、前部のライトをぎんぎんに光らせ、わざわざ偽物のエンジン音を鳴らしながら、ゆっくりとジュナスに近付いてくる。先ほどのバイクのボロボロの姿に比べれば、こちらは生命力に満ち溢れていると言っても過言ではない。そして、その暴れ馬のような機体に跨っている人影を見たとき、ジュナスはぎょっと目を見開いた。
「ネリィ!?」
車上の人となったネリィは、ジュナスが見たこともない、やたらと丈の長い白い服を着ていた。袖のところに「離死手亜」という文字が縫い込められている。ジュナスは慌てて、鋭い目つきで前方を睨み据えているネリィに近寄った。
「何やってんだよって言うかこれ何だ!?」
「ふふふ、それは僕から説明させてもらうよ、ジュナス君」
答えたのは、ネリィではなかった。見ると、ネリィの後ろからワッパでこちらに向かってくる人影がある。整備員のライルだ。心なしか、いつもより生き生きしているように見える。
「ライルさん、これって」
「ネリィちゃんの私物だよ。僕が預かって整備してたんだ」
ライルは得意げな顔でネリィの乗ったバイクを見ながら、声を張り上げた。
「しかも、ただ単に保守していただけじゃないよ。ネリィちゃんの要求に応じて、いろいろと改良を加えてあるんだ」
「たとえば?」
「速度や強度の向上はもちろんのこと、防弾性も向上してるんだ。これなら機関銃で撃たれたって平気さ!」
「いや、乗ってる人間は死んじゃうってそれ」
ジュナスは呆れて言ってから、黙ってバイクに跨っているネリィに聞いた。
「なあネリィ、こんな物引っ張り出してきて一体何するつもりなんだよ?」
「……愚問ですわ」
呟くネリィの声には、確かな闘志が宿っていた。
「貴族たるもの、受けた恥を百倍にして返すのは当然のこと」
「え、じゃあひょっとして、あいつと追いかけっこするつもりなのか!?」
「追いかけっこ? いいえ、これは決闘ですわ!」
ネリィは壮絶な笑みを浮かべる。瞳がぎらぎらと危険な光を放った。同調するようにバイクも唸り声を上げる。
「この私に耐え難い恥辱を与えた……その罪、万死に値する!」
「いや幽霊なんだから最初から死んでるっつーか、そもそも生き物じゃないしあれ」
「関係ありませんわ。あんなもの、一秒たりともこの宇宙に存在していることを許しておくものですか。必ずや蹂躙し、粉砕し、完膚なきまでに破壊して宇宙にばら撒いてやりますとも!」
ネリィは手のつけようがないぐらいに盛り上がっている。ジュナスは困った顔で、
「で、でもさ、あれ幽霊だろ? 怖くないかネリィって言うか怖いだろネリィ?」
「その点に関しては心配ご無用さ」
と、ライルが指を突き立て、
「ネリィちゃん、そこのボタンを押してみて」
ネリィがスピードメーターの横に増設されたボタンを押すと、左右のライトの間から何かが飛び出した。ドリルだ。
「それで幽霊を粉々にしてやりなよ!」
「いろいろ間違ってるだろそれ!?」
ジュナスの声はもはや悲鳴に近かったが、ネリィはうっとりした様子で、
「素晴らしい」
「え」
「さすがライルさん、私の趣味をよく理解しておいでですのね」
「はっはっは、技術者たるもの、お客さんのニーズに答えるのは当然さ!」
得意げに親指を立てるライルに、ジュナスはげんなりしながら、
「ネリィが頼んだのかよこれ」
「いや、違うよ。僕が勝手につけたのさ。こんなこともあろうかと!」
こんなこともあろうかと、の部分にやたらと力が篭っている。ライルはきらりと丸眼鏡を光らせながらジュナスに向き直り、
「ジュナス君だってドリルに憧れた時期があっただろう?」
「ないよ。っていうかどんな時期だよそれ」
「分かっておりませんのねジュナス」
と、ネリィは優雅にため息を吐いて、
「これが男の心意気というものですわ」
「そのとおり!」
ネリィとライルがにやりと笑い合う。ジュナスはうんざりしたように肩を落とした。
「さて、お喋りしている暇はありませんわ」
ネリィは懐から取り出した鉢巻きを頭に撒いた。額の部分に「特攻隊長」の刺繍がある。
「待っていなさいオンボロバイク、すぐに粉々にして差し上げますわ」
ネリィは鼻息も荒くそう呟いた。本来なら不要のエンジン音が高々と鳴り響く。ジュナスは心底嫌そうな顔で、
「この偽物のエンジン音も心意気って訳?」
「走り屋の魂ですわ」
「そうですか」
ジュナスはついていけないというように首を振る。そんなことをしている間に、準備は整ったらしい。ネリィはライルを見て、
「それでは、行って参りますわ」
「え、ちょっと待てよネリィ」
ジュナスが慌てて、バイクの後ろを掴む。ネリィは構わずバイクを発進させた。急加速。ジュナスの悲鳴を残して、二人を乗せたバイクが道の向こうへと消えていく。ライルは何度も頷きながら、満足げにその光景を見つめていたのだった。
「うおぉぉ……痛いぞぉ……」
涙目で呻いているのは、シャロンに大事な部分を踏みつけられたニール・ザムである。彼は今、先ほどの路地裏の隅にある家の壁を背にして、股間を押さえて座り込んでいた。周囲を部下たちが囲んでいる。
「大丈夫ッスか、リーダー」
チームの副長が、心配そうに問いかけてくる。しかし、そんな表情をしているのは彼だけだ。他のメンバーは、どこか呆れた視線である。それに気付いたのか、ニールは部下達を睨みつけ、
「何だお前ら、その目は」
部下達は顔を見合わせ、
「だって、なぁ」
「あんな細っこい女に簡単にやられるなんて」
「情けねぇよな」
と、小声で囁きあった。ニールは顔を赤くして立ち上がり、
「うるさい、黙れ! 女だと思ってちょっと油断……っおぉぉ!」
怒鳴りかけたニールが、股間を押さえてまた座り込む。部下たちが揃ってため息を吐いた。ニールはそんな彼らを涙目で見回し、
「何をボケッとしてるんだお前ら。サッサとあの女を俺の前に連れて来い」
「そりゃ無理ッスよリーダー、ありゃ化け物だ」
副長が言う。他の部下たちも「そうだよな」「プロっぽかったし」「無理ですよ」「諦めましょうよ」と、揃いも揃って逃げ腰である。ニールは癇癪を起こしたように、
「つべこべ言わずに行け! さもないと……」
言いかけて、ニールはふと眉をひそめる。副長が怪訝そうに、
「どうかしました?」
「静かにしろ。何か、変な音が聞こえないか?」
「変な音?」
ニールの言葉に、他のメンバーも口を閉じ、耳をすませた。確かに、かすかに聞こえてくる。排気ガスを出すような乗り物が原則的に禁止されているコロニー内では聞き慣れない、排気音混じりのエンジン音。それが、曲がり角の向こうから徐々に近付いてくる。
「何だ?」
怪訝そうに顔を見合わせる一同。ニールは顎でその方向を示し、
「おい、誰か見て来い」
しかし、誰も動かない。先ほどのことがあってか、皆及び腰である。ニールは苛立ち、
「このヘタレどもがっ!」
「だったらリーダーが見てきてくださいよ」
誰かが言う。他のメンバーも「そうだそうだ」と賛同の声を上げた。ニールのこめかみに青筋が立った。
「どいつもこいつもナメやがって」
「リーダー、俺が行ってきましょうか?」
名乗り出た副長に、ニールは首を振ってみせた。
「いや、俺が行く。このままではリーダーとしての面子が立たんからな」
ニールが憤然と立ち上がり、股間を押さえながら歩き出そうとしたとき、曲がり角から何かが飛び出してきた。それはバイクだった。まるでジャンク山から抜け出してきたようなボロボロの二輪車が、唸り声を上げながら人も乗せずに突っ込んでくる。しかし、そう認識したときには、既にニールは跳ね飛ばされていた。
「り、リーダー!」
副長の絶叫など気にも留めないかのように、幽霊バイクは反対側の曲がり角に消えていく。地に倒れ伏したニールがよろっと顔を起こし、
「だ、だいじょうぶ……」
言いかけた瞬間、再び曲がり角からバイクが飛び出してきた。今度は人が二人乗っていたが、こちらも減速など考えていないような速度でニールを轢いて、反対側の曲がり角に消えていく。こうしてその路地裏には、遠ざかる爆音をBGMに、地に倒れ伏したままピクピクと痙攣する男が残されたのだった。