【ある姫君の暴走】 692氏





 同コロニー内、Gジェネレーション支社内のとある部署。人気のない薄暗い部屋の中、一つだけ起動しているパソコンがあった。モニターのぼんやりとした光に、そのデスクに腰掛けた女性の顔が薄く照らし出されている。
 「……で、あの小娘まだ来やがりませんのですけれど?」
 苛立った声でそう言う女性の名は、フローレンス・キリシマ。ネリィの憧れの人であり、Gジェネレーション社長ブランド・フリーズの秘書でもある人物だ。
 彼女は不機嫌そうな表情を隠そうともせず、モニターに映る人影を睨みつけている。並の人間ならそれだけで萎縮してしまいそうなほど迫力のある視線だったが、しかし今の会話相手はただ苦笑を返すだけである。
 「まあまあキリシマさん、そんなに怒らないであげて下さいよ。ちょっと遅れてるだけですって」
 エターナだった。フローレンスはデスクを殴りつけ、
 「遅れすぎなんだよ……でございますわ。約束の時間からもう三時間ですことよ、三時間」
 「いいじゃありませんか。お仕事の方は片付いてるんでしょう?」
 「そりゃま一応、ネリィとちょっと話すぐらいの時間ぐらいなら確保できると思いますけれど」
 エターナが小さな笑いをもらした。フローレンスは眉尻をつり上げ、
 「……何がおかしいんだよ……でございますか?」
 「いえ。ただ、ネリィさんとお話するために、随分と張り切ったんだなぁと思いまして」
 にこやかにそう言うエターナに、フローレンスは顔をしかめて目をそらす。
 「別に。元々大してやることがなかっただけだよ……ですわ」
 「またまた。この忙しい時期、ブランド社長の秘書さんに仕事がない訳がないじゃないですか」
 「……チッ、お見通しかよ」
 フローレンスは少し顔を赤くして、ぽりぽりと頬を掻いた。
 「まあ、久しぶりだし。いろいろと話をしたいとも思ったからよ……ですわ」
 「何年ぶりぐらいになります、ネリィさんに会うの?」
 「ん。年数的にはそんなでも。せいぜい二、三年そこらってところさ……ですのよ。けど、それまでは毎日一緒だったしよ……ですから」
 「何やってたんです?」
 「族」
 短く、一言でフローレンスは答える。エターナは目を瞬いた。
 「族、ですか?」
 「ああ。五年前ぐらいからかな。ほら、その時期ってアタイもアンタもふらふら放浪してただろ……でございましょ?」
 「ええまあ、情報を集めながら」
 「そ。まだ奴が来る時期じゃなかったってのもあるし。暇だったからたまたま滞在してたコロニーの半端野郎ども集めて、遊びまわってた訳よ……なのですわ」
 「何で族なんです?」
 「や、その野郎どもの中に、地球のどっかの島国の、かなり昔の漫画のファンがいてさ。何だっけかな、ぶっこみのうんたらとか。で、暇だったから皆でそれの真似やろうぜってことになって。そんなこと始めていくらか経ったころに……」
 「ネリィさんが?」
 「そ。何か、町中で何人かの男に囲まれて怒鳴り声上げててさ。いかにもお嬢様っぽかったから、ほっとく訳にもいかんだろと思って助けたら、アタイにほれ込んじゃったみたいで」
 「はぁ。それで?」
 「それから二、三年ぐらい『びきびきぃっ』とか『!?』とか『タケマルぅ!?』とかやって遊んでたんだけど、んなことやってる内にあのオカマがきやがってさ。子分ともどもGジェネレーションに入らされたって……という訳ですわ」
 ため息混じりに、フローレンスは話を結ぶ。エターナは呆れた調子で、
 「私が深海に潜ったり木星に行ったりして情報収集してる間に、そんなことやって遊び呆けてたんですか?」
 「そっちもそっちで楽しそうじゃん。情報収集はちゃんとやってたって。もっとも……」
 と、フローレンスは不意に目を細めた。
 「お互い、大した収穫は得られなかったみたいだけどな」
 「そうですね」
 エターナもまた、暗い表情で俯いた。
 「月のジェフリーさんもいろいろと調べてくれているようですけど」
 「ま、奴が事を起こす直前まで尻尾すら掴ませてくれないってのは、いつものパターンだけどさ」
 「こちらは常に後手後手で……悔しいですね」
 エターナは唇を噛む。フローレンスも少し黙っていたが、やがて話題を変えるように一息を吐き、
 「で、ネリィはそっちで元気にやってるのか……のですか?」
 「ええ、それはもちろん」
 エターナは気を取り直すように苦笑した。それから、ちょっと首を傾げて、
 「やっぱり、心配なんですか?」
 「ま、ね」
 フローレンスは困ったように微笑み、
 「あの野郎、意地っ張りっつーか頑固っつーか、苦しくても人には素直に話さないところがあるからな。無理してなきゃいいがと思ってたんだが……ですけれど」
 「大丈夫ですよ。他の船員とも仲良くやってますし」
 「ん。ならいいんだけど。ま、何にしても、会うのが楽しみってやつさ」
 言って、肩を竦めたフローレンスが、不意に何かに気付いたように、モニターから目を離した。左方、窓の方向である。
 「? どうしました?」
 「ん。いや、何かちょっと懐かしい音が聞こえたような……」
 エターナに答えつつ、窓に歩み寄る。そして下を覗き込んだ途端、騒々しい排気音と共に、物凄いスピードで何かがビルのすぐ傍を通り過ぎていった。
 「……」
 こめかみに指を置きながら、フローレンスはモニターの前に座りなおす。そして、眉をひそめて、
 「なぁ。ネリィの奴、バイクでこっちに来るって言ってたか?」
 「は? 何のことです?」
 エターナがきょとんとする。フローレンスはそれには答えず、右目の外端の辺りに軽く指で触れた。すると、その部位からコンピューターが動作しているような小さな電子音が鳴り始めた。しばらくして、フローレンスは何かを確認するように頷き、
 「……やっぱりネリィだ。後ろに人乗っけてるが……こいつ誰?」
 「ああ、ネリィさんと一緒にいるのなら、多分ジュナスさんだと思いますけど……」
 エターナは少し不思議そうに、
 「通り過ぎちゃったんですか?」
 「ああ。ったく、何やってんだか」
 うんざりした口調で呟くフローレンスの顔は、しかしどこか楽しげである。
 「どうしたんです?」
 「ん? いや。相変わらず愉快なことやってんなぁと思ってさ。なるほどねぇ」
 先ほどからずっと、フローレンスの右目の脇の辺りから、途切れることなく小さな電子音が発せられていた。まるで、中にコンピューターでも入っているような音。
 「前の奴……人が乗ってねぇな。AIでも搭載してるのか? 何にしても、そんなのと夜中にレースなんざ、ネリィも相変わらず元気そうじゃねぇか。だが」
 フローレンスはニヤリと笑う。犬歯をむき出しにした、野性的で獰猛な笑み。
 「そんなんでアタイとの待ち合わせに遅れるってのはよくねぇなぁ。よくねぇよなぁ。よくねぇ子にはお仕置きしなくちゃなぁ?」
 楽しそうに頷きながら、フローレンスは椅子に掛けてあった黒いコートを羽織る。それからモニターに向かって片手を立て、
 「悪ぃ、ちょっと出るわ」
 「え、大丈夫なんですか? 休憩時間は終わってるんでしょう」
 フローレンスはちらりとオフィスの入り口を見やり、
 「ま、職務放棄だけど。いいって、どうせこうやって私用通信長くやってる訳だし。怒られんなら一緒だって……なのですわ」
 「そういう問題じゃないと思いますけど……」
 「気にすんなって。ほっときゃいいんだって……いいんですわ、あんなオカマ」
 フローレンスはからからと笑う。エターナは諦めたようにため息を吐き、
 「まあ、いいですけど。怒られるのは私じゃありませんし」
 「そうだろ……でございましょ」
 胸を張るフローレンスに、エターナは少し首を傾げて、
 「ところで、さっきから何なんですか、その変な口調?」
 「え?」
 「お嬢様みたいなそうでもないような、何だか変に上品な」
 「だって、秘書だし。アタイ」
 エターナが複雑な顔で沈黙する。フローレンスは首を傾げ、
 「ま、いいや。んじゃ行ってくるな」
 「ええ。それにしても、ホント元気ですねぇ。お疲れじゃないです?」
 エターナはまた苦笑を深める。フローレンスは肩を竦め、
 「何言ってんだ、お互い疲れ知らずの体だろうが」
 「厳密には違いますけど」
 「細かいことは気にすんなって。じゃな」
 「はい。お気をつけて」
 エターナの一礼を見届けたフローレンスは、パソコンの電源を落とし、コートの裾を翻しながら颯爽とオフィスを後にした。

 シャロンが去った後、相変わらず椅子に座ったまま物思いに耽っていたパティは、ふと誰かが階段を下りてくる音を聞きつけて眉をひそめた。小さく苦笑し、
 「やれやれ、今日は寝付けない子が多いのかな?」
 呟き、階段の方に呼びかける。
 「おーい、許可なしに夜間外出すんのは禁止だよー。さっきは通しちゃったけど、今度……は……」
 言葉は途中で途切れた。苦笑を形作っていた顔が、見る見る内に驚愕と緊張に染まっていく。
 階段を下り、ロビーに姿を現したのは、右目に眼帯を巻いた男だった。闇を身に纏ったようなどこまでも暗い雰囲気の、引き締まった長身。身を強張らせ、息を潜めるパティの視線など気にも留めないように、男は何かを探すようにゆっくりと首を巡らせた。
 「誰だ……?」
 呟き、笑う。
 「壊れにくそうな奴がいるな? 壊しがいのありそうな奴がいるな? どこにいる?」
 ますます、笑みが深くなる。獲物を目に捉えた狩猟者のような、あるいは敵を威嚇し今まさに襲い掛からんとする野獣のような、獰猛で危険な笑み。自分に向けられたものでもないのに、パティの全身に悪寒が走り、額に冷や汗の珠が浮いた。その男、オグマ・フレイブを前に、パティは指先一つ動かすことも出来ない。
 不意にオグマは笑いを収め、
 「ここにはいないか」
 出入り口に向かって歩き出した。それを見たパティがハッとして、
 「あ、あの!」
 思わず声を上げた。オグマは足を止め、ゆっくりとパティに目を向ける。睨んでいる訳でもない、ごく普通の、気だるげですらある瞳。それにも関わらず、パティは身を竦めてしまった。
 「何だ」
 オグマは短く聞いてくる。パティは唾を飲み込み、気を落ち着けるように胸に手を置きながら、
 「……さ、作戦進行中の現在の状況において、用もないのに夜間外出するのは軽率かつ何ら利のない行動だと考えますが……」
 そう言う声はとても固く、震えを隠しきれていない。オグマはそんなパティを大して興味もなさそうに眺めて、
 「偵察だ」
 と、一言。
 「え」
 驚くパティに構わず、オグマは悠然と歩いて外へ出て行ってしまった。パティはしばらく呆然と立ち尽くし、倒れるように椅子に座りこんだ。
 「……怖かったぁ……」
 大きく息を吐くように呟く。額に手を当てると、顔が多量の汗で濡れているのが分かった。
 「シャレになんないよホント、あの人だけは……」
 手の甲で汗を拭ってから、パティは不意に、ハッと入り口の方を見た。
 「ヤバ、シャロンがまだ帰ってきてない。もし、無断外出してたのがばれたら、オグマ隊長に……」
 パティは青くなり、少し迷ってから立ち上がると、階段を駆け上がった。二階廊下、一番手前の部屋の扉を開け、悲鳴のような声で怒鳴る。
 「ユリウス、見張り代わって!」
 返事を待たずに踵を返し、パティもまた慌しく廃ビルから出て行った。
 
 どれだけ走っても、前を行く幽霊バイクとの距離は縮まらない。敵の車体を睨みながら、ネリィは眉間に皺を寄せた。
 「なぁ、ネリィ」
 不意に、後ろから声をかけられる。ずっとネリィにしがみついているジュナスだ。先ほどと違い、今は大分落ち着いてきた様子である。
 「何かさ、あいつ、ずっとこっちと着かず離れずって感じじゃないか?」
 「……そうですわね」
 視線は前に向けたまま、ネリィは頷いた。
 「こちらを試しているような、どこかに誘い込もうとしているような……どちらにしても不快ですわ」
 「何が目的なんだろうな、あの幽霊?」
 心底不思議そうに、ジュナスが言う。その言葉に、ネリィはグッと唇を噛み締め、
 「幽霊じゃありませんわ」
 「は?」
 「あのバイクは、断じて幽霊などという非科学的な代物ではございませんの」
 必要以上の力が込められたせいか、声が震えていた。ジュナスは少し沈黙したあと、
 「じゃあ何なんだ?」
 「AI搭載の無人バイクですわ」
 「はぁ?」
 ジュナスは素っ頓狂な声を上げた。
 「一体どっからそんな話が?」
 「そうとしか考えられませんもの。だって幽霊なんかいないんですし。いないものはいないんだから、可能性として考えるのは愚の骨頂というものですわ。となれば、残るのは……」
 「あいつが人の技術の産物だって?」
 ネリィは無言で頷いた。後ろからそれを見ていたのであろうジュナスが、低く唸る。
 「うーん、でも、俺あいつの声聞いたと思うんだよなぁ」
 「気のせいですわ」
 「いやでも、結構はっきり」
 「気のせいですわ」
 二度断言した後、ネリィは無理矢理笑った。
 「オホホホホ、嫌だわこの人ったら。NT適性があるからって、ただの空耳すら『宇宙人のテレパシーだったんだよ!』なんて仰るつもりなのかしら? それじゃ単なる電波少年ですわ! いっそ部屋に閉じこもって懸賞生活でも送られてはいかが?」
 「何言ってんだかよく分かんないんだけど」
 「とにかく、奴は幽霊なんかじゃなくて、現行の科学技術で充分説明がつく、単なる玩具なんですわ。お分かりかしら、ねぇ?」
 ネリィは無理矢理そう締めくくった。無理矢理理屈づけて、誤魔化そうとしているのが丸分かりだった。

 ネリィの腰にしがみついていたから、ジュナスにはバイクを操る彼女の体が震えているのがよく分かった。走っている内に、怒りに震えていた心が段々と落ち着いてきたのだろう。
 (そりゃ怖いよなぁ、ネリィ。泣いちゃうぐらい幽霊嫌いなんだし)
 ジュナスは小さく苦笑する。そして、ネリィの後頭部を見た。後頭部しか見れなかった。彼女がただひたむきに、前だけを睨んでいたから。
 (怖いはずなのに、あいつを追っかけてるんだもんな)
 ただ、プライドを傷つけられた仕返しをするために。失った誇りを取り戻すために。ジュナスはネリィの後頭部を見ながら、楽しげに笑った。
 「そういうの好きだな、俺」
 「え? 何か仰いました?」
 怪訝そうな、しかし余裕のないネリィの声。
 「いや。ちょっと、謝っておこうと思ってさ」
 「え? 何がです?」
 「ネリィの言うとおりだったってことさ。あれ」
 と、ジュナスはネリィの後ろから、前方を走る幽霊バイクを指差した。
 「幽霊じゃないと思う」
 「は?」
 ネリィは完全に虚を突かれたらしく、間の抜けた声だけが返ってきた。それでも前だけを見ているネリィに、ジュナスは満足気に頷く。
 「いやー、悪い悪い。直前に怪談なんか聞いてたせいかなぁ。何かそう思い込んじゃったみたいで」
 「でも、声が聞こえたって」
 「ネリィも言ってたじゃん。空耳だって」
 「でもジュナス、あなたはNTでしょう?」
 「うん。そうらしいね。でもさ、今は何も聞こえないんだぜ?」
 嘘ではなかった。耳を澄ましてみても、幽霊バイクの声は聞こえてこない。
 「だからさ、ネリィ。あいつ幽霊なんかじゃないよ。ネリィの言うとおり、きっとAIでも載せてるんだぜ、きっと」
 「でも……」
 「NTの俺が言うんだ、間違いない!」
 ジュナスは力強く断言した。ネリィはしばらく無言で運転していたが、
 「ジュナス」
 「うん?」
 「本当に、あれは幽霊じゃありませんのね?」
 「もちろん。信用してほしいな」
 「では、私が恐れることなど何もありませんのね?」
 念を押すように、ネリィは聞いてくる。それでも、ただ真っ直ぐに前だけを睨みながら。ジュナスも、ネリィには見えないと知りつつ大きく頷いた。
 「当たり前だろ? あんな奴、グランシャリオが誇る無敵の操舵手ネリィ・オルソン様の実力にかかれば、十秒かからずにスクラップさ!」
 「……そう、ですわね」
 ハンドルを握るネリィの手に、ぎゅっと力が篭ったのが、ジュナスには分かった。畳み掛けるように、
 「それにさ」
 「え?」
 「よく考えてみろよ、ネリィ。あいつが幽霊じゃなくてAIだってことは、あいつを動かしてる奴がどっかにいるんだぜ?」
 「……そうなりますわね」
 「ってことは、俺達がみっともなく逃げ回ってるの、モニターしてたってことだろ?」
 「……そう、なりますわね」
 「下手したら映像保存してばら撒いてるかもしれないぞ? 『いやー、今日引っかかった奴等は笑っちゃうぐらいびびってたなぁ。特にこの生意気そうな金髪女がぴーぴー泣いてるのが最高だなぁ』なんて言いながら」
 「……」
 ネリィは答えない。しかし、彼女の体の震えの質が変わったのに、ジュナスは気がついた。
 (怒ってる怒ってる)
 くわばらくわばら、と内心で呟きながら、ジュナスはさらに煽り立てるように言った。
 「なぁネリィ、そんなの許せるか? 許せないだろ? 許せる訳ないよな、誇り高きネリィ・オルソン様がさ?」
 「……」
 「許せなかったらどうする? ネリィに恥をかかせたあいつをどうしてやる? ネリィ・オルソン様のプライドを傷つけた宇宙一の大馬鹿野郎の末路は一体どうなるんだ? 是非とも俺に教えてくれ」
 ネリィは答えなかった。ただただ無言でハンドルを握っている。そして、夜も明かりの消えない繁華街が目前に迫ってきたころ、一言言った。
 「ブチ殺す」
 静かな声だった。それだけに、空気を凍らせるほどの怒気をひしひしと感じるような声だった。ジュナスは一瞬竦みあがり、生唾を飲み込みながら、
 「……そ、そうか。どうブチ殺すんだ? 調理方法はいかが?」
 「壁に激突させて機能停止させて鉄パイプで原型とどめないほどぐしゃぐしゃに殴ったあと燃料タンクに直接火ぃつけて派手に炎上させてそれから残骸を炉で融かして便器として再利用する」
 「……そ、そうですか。なんか嫌に具体的だけど」
 「それから」
 「はい!?」
 何故かジュナスは飛び上がりそうになった。気にする様子もなく、ネリィはゆっくりと言う。
 「あいつを動かしてる奴は全殺し」
 冗談に聞こえなかった。ジュナスは数瞬固まり、
 「……俺はひょっとして、取り返しのつかないことをしてしまったんじゃないだろうか?」
 「何ですって?」
 「いやいや、なんでもないです。大変素晴らしい調理方法で、お姫様」
 「オホホホホ、そうでしょうとも。これでも料理の腕はチーム1、2を争うほどでしたわ」
 「……その料理って、材料人間じゃないよね?」
 「ん?」
 「いやいやいやいや、何でもございませんともお姫様。今夜のお夜食に何だか分からない肉の丸焼きが出てきても涙流して食べさせていただきますとも」
 「よく分かりませんけれど……ああ、ところでジュナス」
 「はい?」
 「これからちょっと運転が荒っぽくなりますから、先ほどのように振り落とされぬよう、しっかり捕まっていなさいな」
 「……了解」
 ジュナスはネリィの腰に回した手に力を込める。
 「おお、柔らか……」
 しかし、感想を言い切る前にバイクは急加速した。一足先を走る幽霊バイクを追いかけ、ジュナスの悲鳴を残しながら繁華街の光の中に突っ込んでいった。

 ――まだ、ついてきてる。
 後ろから聞こえてくる騒がしい声に、彼は内心で笑いを零した。
 ――今夜もまたダメかと思っていたが、あいつらならひょっとして。
 全身が喜びで打ち震える。歓喜の咆哮を上げながら、彼は更に加速した。

 人工的な光が煌々と輝く繁華街の只中を、二台のバイクが爆走する。
 勤務時間が終われば人気もまばらとなるオフィス街と違い、この繁華街は夜半をとっくに過ぎた現在の時刻であっても人通りが多い。多くは仕事帰りに一杯引っ掛けている人間たちだ。そんな訳で、二台の行く手は障害物で一杯だった。
 しかし幽霊バイクはさほど減速することもなく、軽やかに車の群をすり抜けていく。そこかしこからクラクションが鳴り響いたが、お構いないである。
 ネリィは短く舌打ちを漏らすと、追走を開始した。こちらも減速なしに、強引に車の脇を通り抜ける。ジュナスは悲鳴を上げた。
 「ネリィ、もうちょっとスピード落としてくれよ!」
 「それでは追いつけませんわ!」
 怒鳴るような即答が返ってくる。しかし、幽霊バイクが他車の存在など全く考えずに走っているせいか、前方の道路は危険防止のために一時停止した車で埋まっており、とてもすり抜ける隙間などありそうにない。
 ネリィは歯噛みしながら、素早く周囲に視線を走らせる。そして、躊躇いなく歩道に向けてバイクを走らせた。
 「っておい!?」
 「こちらの方が障害物が少ないのですわ!」
 「そういう問題じゃ……!」
 ジュナスの抗議など無視して、二人を乗せたバイクは歩道に乗り上げ、驚き立ちすくむ人の間を縫って走り出した。そこかしこで悲鳴が上がり、進路上の人々が慌てて飛びのく。弾丸のように突っ込んでくるバイクに、歩道は一気に恐慌状態に陥った。とはいえ、ネリィの腕も大したもので、右往左往する人々を紙一重でかわしていく。
 「すげぇ……けどネリィ、いくら何でも危なすぎるって!」
 ジュナスの嘆きを聞いてもいないかのように前方を見据えていたネリィが、不意に唇を吊り上げた。
 「いた!」
 ようやく、車道を走っていた幽霊バイクに追いついたらしい。幽霊バイクもこちらに気付いたのか、さらに加速した。
 「逃がすか!」
 ネリィもためらわずにスピードを上げる。周囲から上がる悲鳴が渦を巻くようだったが、ネリィは巧みな運転で群集の間をすり抜けていく。そのとき、不意に前方を走っていた幽霊バイクも、歩道に乗り上げてきた。
 「なに?」
 ネリィは眉をひそめた。幽霊バイクはテールランプの軌跡を見せつけながら、交差点を左折した。その先から、あの擬似エンジン音が高々と響き渡る。
 「……ふーん。この『峠の轢き逃げ女王』ネリィ・オルソン様を煽っている、という訳ですのね?」
 ネリィは呟き、唇を吊り上げた。研ぎ澄まされた刃のような、鋭い微笑み。
 「上等! その喧嘩、買った!」
 応じるような擬似エンジン音をまき散らしながら、二人を乗せたバイクは更なる加速を開始した。

 人の少ない夜の街を、右へ左へ行ったり来たり。
 どれ程時間が経とうとも、二台のレースは終わる気配を見せなかった。
 時には照明の落ちた工場の敷地内を突っ切り、チンピラのたむろする地下歩道を爆走し、公園の滑り台を逆走して夜の闇にその身を躍らせ、長い階段の手すりを神業の如きバランスで滑り降りる。
 二台の走りは、もはや芸術の域にまで高められていた。やはり幽霊バイクは人間離れしているが、それについていけるネリィもまた人間とは思えない技量の持ち主である。
 「……って言うか、何で振り落とされてないんだ、俺……」
 ネリィの後ろに跨ったジュナスが、げっそりした顔で呟く。勝負が白熱しすぎているせいか、ネリィはそれに一言の返事も寄越さない。やはり、ただ前だけを、自分のレース相手だけを見つめ続けている。
 前を行く幽霊バイクの車体は、先ほどよりは大きくなっているように見える。ネリィはゆっくりとではあるが相手との距離を詰めてきているのである。
 しかし、
 「……そういや、いつ終わるんだろ、これ」
 当初幽霊バイクを壊すと意気込んでいたネリィだが、今となっては純粋にレースを楽しんでいるようだ。相手の破壊を目的として走っているような荒々しい感じが、完全に消えうせているのだ。
 とすれば、この追いかけっこの終着地は一体どこなのか。
 ジュナスが首を傾げた瞬間、その疑問に応えるように、幽霊バイクの車体に変化が起きた。
 派手なカラーリングを施されたボロボロのフレームから、ゆらりと蒼い光が立ちのぼる。
 思わず目を見開いたジュナスの目の前で、蒼い光は幽霊バイクを取り巻くように広がり始めた。
 (……違う)
 ジュナスは小さく首を振った。蒼い光が幽霊バイクを包んでいるのではない。幽霊バイクが蒼い光を纏っているのだ。
 そう自覚した途端に、ジュナスの視界が大きく揺れ動いた。

 その町で、彼は最速だった。
 彼の主人はまだ若い男で、ただ純粋に走ることを愛し、仲間を大事にする気のいい若者だった。
 若者が彼に跨れば、彼らに追いつける者は誰一人としていなかった。
 ありとあらゆる束縛から逃れ、彼らは毎日、自由に走り回った。
 景気づけに鳴らす爆音、見守る仲間たちの声援、ただひたすら真っ直ぐに伸びる道、必死に自分を追いかけるノロマな競争相手たち。
 全てが光り輝いていた日々。
 しかし終わりは唐突に訪れた。

 ――じゃあ、行ってくるよ、母さん。
 ――どうしても行くの?
 ――ダチが軍に志願したんだ。ほっとけないよ。
 ――戦場には出ないんだろ?
 ――分かんないな。キンセンカってコロニーの警備隊に回されるって話だけど。
 ――無事で帰って来るんだよ。
 ――もちろん。まだ走り足りないんだ。あいつのことも時々は見てやってくれな?
 ――恋人みたいに言うんだね。
 ――恋人なんかよりよっぽど大事さ。じゃ、行ってきます。
 ――行ってらっしゃい。

 そして、「ただいま」はなかった。

 ――元気出してください、奥さん。
 ――ごめんなさいね。でも、私だけではありませんし。
 ――コロニーに核ミサイルを撃ち込むだなんて。
 ――キンセンカは全壊状態。周囲はデブリだらけで近寄れないと。
 ――では、棺は?
 ――空ですわ。
 ――何か、お手伝いできることは?
 ――遺品の処分を。
 ――処分、ですか。
 ――あの子の持ち物を見ているの、耐えられなくて。

 彼は待ち続けた。
 ゴミ山に埋もれながら、若者を待ち続けた。
 待たせたな。さぁ、また走ろうぜ。
 若者が、笑いながら現れるのを、ひたすらに待ち続けた。
 そうして何年もの月日が流れたとき、彼はようやく思い知った。
 若者はもう来ないのだと。もう、自分が人を乗せて走ることはないのだと。
 しかし、朽ちる前に、どうしてもあと一度だけ走りたかった。
 あの頃のように。
 誰も、彼に追いつくことはできなかった、あの頃のように。
 そして今、彼は走っていた。

 気付けば全てが元通りだった。
 ネリィは走っている。ジュナスを後ろに乗せて、幽霊バイクの後ろを走っている。
 彼には追いつけない。
 誰も、追いついたことがない。
 彼は最速だから。
 この町で、一番速い生き物だから。
 「そっか」
 ふと、ジュナスは呟いた。
 「走りたかっただけなんだな、お前」
 答えはない。だが、幽霊バイクは、どこか楽しげに走り続けている。闇を裂くような蒼い光を、その身に纏いながら。
 命の色だ、とジュナスは思った。
 蒼は生命の色だ。
 踊るように、跳ね回るように、蒼く光輝きながら。
 今、彼は生きているのだった。
 「でもな」
 ジュナスは小さく呼びかける。
 「いつまでも走り続ける訳にはいかないんだ、俺たちは」
 その声を、幽霊バイクは聞いていたのだろうか。
 「俺達は、走るだけの生き物じゃないんだ、お前と違って。だから、そろそろ終わらせなくちゃいけないんだよ」
 応えるように、蒼い光が輝きを増した。ジュナスはふっと笑った。
 「ジュナス、さっきから何をぶつぶつ仰っているんですの?」
 速度を緩めず走りながら、ネリィが不思議そうに問いかけてくる。幽霊バイクが放つ光は、彼女には見えていないらしい。
 「いや」
 ジュナスが首を振ったとき、前を行く幽霊バイクが左に曲がり、路地裏に入った。ネリィもそれを追う。
 「ここは……」
 見覚えのある道だった。最初出会ったとき、逃げ惑う二人を幽霊バイクが追い詰めた道である。
 「ふふん、上等じゃありませんの」
 ネリィは不敵に呟いた。
 路地裏は人が四人並べるかどうかというぐらいに狭く、その上複雑に曲がりくねっていた。
 しかし彼等は壁に激突することもなく、かと言って必要以上に減速することもなく、吸い寄せられるようにある方向に向かって走っていく。
 そして、最後の角を曲がったとき、見えてきた。
 比較的長い直線の向こうに、聳え立つ壁。ネリィが欠陥工事だと騒ぎ立てた、高い壁である。無論、通れる隙間もなければジャンプ台になるようなものもない。このまま走り続ければ、間違いなく激突してしまう。
 だが、前を行く幽霊バイクも、それを追うネリィも、その速度を緩めようとはしない。
 ジュナスは、ほとんど蒼い光そのものと化した幽霊バイクが、むしろ加速して壁に向かっていくのを見た。

 ――ここは特別だ。
 ――何で?
 ――この町でバイクに乗る奴は、白黒つけるときは必ずここに来る。
 ――ああ、だからか。
 ――そう。だからだ。

 「この私にチキンレースを仕掛けようと仰るのね!? その意気やよし! ライルさん特製のターボエンジンでお相手いたしましょう!」
 ネリィも吼えるように叫び、更に機体を加速させる。
 両方、止まることは考えていないようだった。見る間に壁が近付いてくる。
 二台の距離は徐々に縮まりつつあった。ジュナスは、一瞬が永遠に引き伸ばされたかのような意識の中で、それを見ていた。
 蒼い光が、一直線に壁に向かっていく。そこがゴールラインであるかのように、少しの迷いもなく。距離から計算すれば、ちょうど壁に激突する瞬間、二台のバイクは並ぶはずだった。
 一瞬、ネリィを止めた方がいいのではないかという考えが脳裏を掠めた。しかしジュナスは首を振る。前を行く蒼い光と、彼女の背中を見て。
 そして、壁が目の前に迫ったその瞬間。
 突然、幽霊バイクがこちらに首を向けた。
 蒼い光が視界を埋め尽くし、ジュナスは奇妙な浮遊感に包まれた。