【彼女がなりたかったもの】692氏



 ジェシカの部屋を出たノーランは、少し覚束ない足取りで、居住区の廊下を歩いていた。片手には開けていないビールの缶をぶら下げている。
 「おっとっと」
 ふらついて通路の壁に寄りかかりながら、ノーランは「へへっ」と照れ笑いを浮かべる。
 「調子に乗って飲みすぎちゃったか」
 呟きながら、周囲を見回す。出来る限り生活感を出せるようにと、標準時で夜間にあたる時間帯は、照明が若干薄暗くなっている。そのためか、ノーラン以外の人影はなかった。ふと、ノーランは近くにトレーニングセンターのあるのに気付いた。
 「あらら、こりゃ随分遠くまで来たもんだ……」
 呟きながらドアの前に立つ。ドアがスライドして開いた。ノーランは内部に入り、壁際にある休憩用のベンチに腰掛けた。人気のない静まり返ったセンター内をぼんやりと眺めながら、持っていた缶ビールのプルタブに指をかけて、
 「あー……さすがに、飲みすぎかなぁ」
 と、思い直して缶を脇に置いた。
 「あんまり良くないよねぇ。肝臓にも悪いし」
 ほとんど夢見心地でそう呟きながら、ノーランを下腹部を撫でるようにさする。
 「それに、胎教っていうの、ああいうのにも悪いって言うし……」
 その言葉は、自然に口を突いて出たものらしい。言ってしまってから、ノーランは自嘲気味に笑って、額を手で叩いた。
 「はは、ダメだなぁホント……未練だわ、これ」
 そして次に顔を上げたとき、ノーランはトレーニングセンターの隅に置いてあるシミュレーターが起動状態であるのに気がついた。

 突如、隕石の陰からデスアーミーが飛び出してきて、ショウは悲鳴を上げた。対応するよりも早くデスアーミーが金棒を大きく振りかぶる。次の瞬間、コックピットに大きな衝撃が走り、全天周囲モニターが完全に沈黙した。
 「YOU DEAD」
 数秒後、スピーカーから無機質な合成音が流れ、コックピットは再び正常な状態を取り戻す。汗だくになりながら、ショウは荒い息を吐いた。モニターに表示されている今回の成績を見ることもなく、
 「三十六回目の撃墜、か。我ながら、被撃墜数はトップかもな……」
 ベルトを外してからも、ショウは疲れた様子でシートにもたれかかっていた。夕方、人がいなくなってから再びシミュレーターに閉じこもり始めて、早数時間。前回の戦闘と同じく、大量のデスアーミーが出現したという設定でやっているのだが、一番簡単なモードもクリアできていない。
 「やっぱり、向いてないのかな……」
 暗い顔で、ショウは独白する。そのあとすぐに慌てて首を振り、
 「ダメだダメだ。こんな弱気だから、いつまで経っても皆の足を引っ張るんじゃないか。そうだ、僕は弱虫じゃない、弱虫じゃないんだ……」
 自分に言い聞かせるように必死な顔で呟いた。が、すぐに眉尻が下がる。
 「……でも、現実はこうだもんなぁ」
 目を開くと、モニターには過去の成績が表示されていた。ショウは一瞬顔をしかめたが、すぐに画面が切り替わり、ランキング形式の成績一覧が流れ出した。それをぼんやりと眺め、
 「一位は……クレア・ヒースロー? 誰だろ、分かんないや。二位がマークさんで、三位がエルンスト隊長、四位がサエンさんか……やっぱり、あんなでも凄い人なんだな」
 その後も、次々と順位が表示される。中には、ショウが知らない名前もあった。
 「そう言えば、ネットワーク対応も検討してる、とかミリアムさんが言ってったっけ」
 現在はそれを試験的に導入している最中らしかった。知らない名前はグランシャリオ隊以外の人間のものだろう。しかし、上位入賞者にはグランシャリオ隊の面々の名前が圧倒的に多い。五位、ニキ・テイラー、六位、エルフリーデ・シュルツ、七位、ジェシカ・ラング。エースパイロットを自称しているラナロウは十位だった。ショウの名前はない。
 「まあ、当たり前なんだけど」
 ショウは苦笑したが、「十七位、シス・ミットヴィル」という文字が表示されたときにはグッと顔が歪み、「二十位、カチュア・リィス」が表示されたときには目が潤んだ。
 「……そろそろ、一旦休憩しようかな」
 乱暴に目元を拭って、ショウは呟く。最下位がドク・ダームだったのは別段救いにならなかった。そのすぐ上にショウの名前があったからだ。ちなみに、その上にジュナスとシェルドの名前が並んでいた。少しげっそりしながら、ショウはシミュレーターのハッチを開ける。と、
 「わっ!」
 「うわぁ!?」
 突然脇から現れた人影に、ショウは悲鳴を上げて倒れこみ、シミュレーターのコンソールに後頭部をぶつけた。
 「いたたたたた……」
 「あらぁ、ごめんよ。大丈夫かい?」
 見上げると、ノーランが心配そうにこちらを覗きこんでいた。
 「まさかあんなに驚くとは思ってなくてさ」
 「はぁ」
 ノーランの手が後頭部をさすってくれているのに気付いて、ショウは少し赤くなった。が、すぐに顔をしかめて、
 「何か、お酒臭いんですけど……」
 「ん? ああ、飲んでるから」
 ノーランはへらっと笑ってショウを助け起こす。ショウは「大丈夫です」と、少しノーランから離れ、壁際まで歩いてベンチに腰を下ろす。隣にノーランも座った。
 「んー、こぶにはなってないみたいだね、良かった」
 ショウの後頭部を軽く触りながら、ノーランがほっと息を吐く。ショウはじっとりとした目でノーランを見て、
 「僕だったから良かったですけど……他の人が入ってたらどうするつもりだったんです?」
 「ん? ああ、それはないよ。ほら、あのシミュレーター、ハッチのところに誰が入ってるか表示されてるから」
 「え? ああそっか、最初にIDカード通しますもんね、使うとき」
 「そういうこと。で、ショウが入ってるのが分かったから、ちょっと驚かしちゃおっかなぁってね」
 「びっくりしましたよ、ホント……」
 ショウはため息を吐く。ノーランは「ごめんごめん」と軽く笑い、
 「それにしても、こんな時間にシミュレーターに入ってるなんて思わなかったよ。ずっとやってたのかい?」
 「はい、まあ、一応」
 「ホント、頑張ってるねぇ。偉いよ」
 感心した様子で頷くノーランに、ショウは少し暗い顔で俯きながら、
 「下手くそですから、僕……」
 「……んー……」
 ノーランは「参ったなぁ」という顔で後頭部を掻き、シミュレーターを見て何かを思いついた顔をした。
 「ねぇショウ、アタシ、相手になったげようか?」
 「え? ノーランさんが?」
 ショウは驚いてノーランを見る。ノーランは気楽そうに手を振り、
 「ああ、そんな身構えなくてもいいよ。ホラ、アタシ今酔っ払ってるからさぁ。こんな状態ならきっと勝てるんじゃない?」
 「……別に、そこまでして勝ちたい訳じゃ……」
 ショウはそう言いながらも少し考え込み、
 「でも、そうですね。じゃあ、お願いできますか?」
 「もっちろん。じゃ、やろうか」
 ノーランはさっさと立ち上がり、少しふらつきながらシミュレーターの方に歩いていく。ショウはノーランとは反対側に向かった。コックピットを模したデザインのハッチは、通常は開きっぱなしになっている。パイロットが乗り込み、コンソール下部のスリットにIDを通した時点で閉じるのである。ショウは開いたハッチに足をかけ、少しためらった。
 「……」
 先ほどまで、ずっと座っていたシートが見えていた。ショウは迷いを振り払うように勢いよく首を振り、シミュレーターの中に滑り込んだ。シートに座り、ベルトをかけてIDカードをスリットに通す。AIがグランシャリオ隊第二小隊員のショウ・ルスカを認識する。次の画面で対戦モードを選択し、使用する機体やオプションも入力する。そのとき、反対側の席から通信が入った。
 「舞台設定はどうするんだい?」
 「宇宙で」
 「障害物の数は?」
 「少なめに」
 「OK。入力はそっちに任せるよ」
 ショウが設定を入力する。AIが求めてきた最終確認にOKを出すと、モニターはすぐに宇宙空間を映し出した。本物かと思うほどに精巧に作られた星の海。遠くにはゆっくりと回転しているコロニー群が見えている。ショウはふと遠い目で、
 「母さん、元気かな……」
 呟いたが、すぐにハッと気を取り直し、
 「いけない、集中しなきゃ……」
 と、真剣な顔で敵機の姿を追い求める。すると、ゼク・ツヴァイが無策に突っ込んでくるのが見えた。
 「相当手加減してくれてるみたいだな……」
 ショウは敵機に向けてビームライフルを撃つ。着弾。ゼク・ツヴァイはバランスを崩し、近くを漂っていた小さな隕石群の方へ流れていく。
 「逃がさない!」
 ショウは気合を入れてペダルを踏み込み、機体を加速させた。