【彼女がなりたかったもの】692氏



 翌日。
 食堂で昼食を終え、去りかけたショウの耳に、誰かの足音が聞こえた。振り返ると、
 「ホンット、昨日はごめん!」
 唐突に両手を打ち合わせ、昨日と同じエプロン姿のノーランがショウに向かって頭を下げた。ショウはぎこちなく笑いながら、
 「……いえ、大丈夫ですよ。別に気にしてないですから」
 「うわ、ひょっとしてすごく気にしてる!? ホントごめんね、もう次からは自重するから、今回だけは許しておくれよ、ね?」
 必死な表情で謝るノーランから、ショウは少しきまりが悪そうに目をそらし、
 「そんな、僕の方こそひどいこと言っちゃったし……」
 「え、何のこと?」
 ショウの小さな呟きを聞き取ったらしく、ノーランはきょとんとした。ショウはいくらかほっとした様子で、
 「いえ、覚えてないんならいいんですけど」
 「そうかい? いやでも、やっぱり悪かったよ」
 「そんな……ホントに、気にしてないですから。母さんも時々あんな風になってましたし」
 「そう? そっか、ありがとね。あー、良かった。ショウが口利いてくれなくなったらどうしようかと思ったよ」
 心底安堵した様子で、ノーランは笑う。ショウは「そんな大袈裟な」と言いかけて、ふと口をつぐんだ。
 (……そっか。大袈裟、じゃないんだ、ノーランさんにとっては)
 「ショウ?」
 少し、考え込んでしまったらしかった。気付くと、ノーランが不思議そうにショウの顔を覗き込んでいた。少し心配そうに、
 「やっぱり、怒ってる? 別に遠慮なんかしなくても」
 「あ、いえ、そういうんじゃないんです! そういうんじゃないんですけど」
 何と言っていいか分からず、ショウは言葉に詰まった。そんな彼を救うかのようなタイミングで、
 「ねーノーラン、これ、どこに持ってけばいいのー?」
 カチュアの声が届く。見ると、昨日のように両手で大きな皿を持ったカチュアが、困ったようにこちらを見ていた。皿の上には大きなケーキが載っているのが見える。ノーランは振り返って、
 「ああ、適当に、どっか空いてる席に置いといておくれ」
 「分かったー!」
 元気良く答えて、カチュアが手近な席に座る。昼食時のピークを過ぎたためか、食堂にいる人間はそれほど多くはない。ショウはカチュアがテーブルに置いているケーキを指差し、
 「あれ、どうしたんですか?」
 「ああ、昨日みたいにクッキーでも作ろうかと思ったんだけど、ちょっと気が変わってね。ケーキ焼いてみたんだよ。良かったら、一緒に食べないかい?」
 「いいんですか?」
 「もちろんさ」
 「……それじゃ、ごちそうになります」
 「うん」
 ノーランは嬉しそうに頷き、ショウに手を差し出しかけて、
 「あ」
 と、慌てて引っ込めて、
 「じゃ、じゃあ、行こうか」
 と、ぎこちなく微笑んで歩き出した。その背中を見ながら、
 (そっか。昨日僕があんなこと言ったから、気にしてるんだ……)
 ショウは少し迷ってから、ノーランに駆け寄って、彼女の右手を掴んだ。ノーランがちょっと驚いたようにショウを見てから、にっこりと笑う。
 「あー、ショウ、ノーランと手ぇ繋いでるー!」
 連れ立って歩いてきた二人を指差して、カチュアが囃し立てる。
 「甘えん坊さんなんだー!」
 「う、うるさいなぁ」
 ショウは少し赤い顔をしながら、カチュアの向かい側に座る。いくらか気を使ったのか、ノーランはカチュアの隣に腰を下ろした。
 ショウは、テーブルの中央に鎮座するケーキを見て、少し複雑そうな顔をした。ノーランが首を傾げながら、
 「ん、どうしたの? あんまりおいしくなさそう?」
 「いえ、そうじゃないんですけど……三人だと、多くないですか?」
 「あ」
 ノーランは「しまった」と言うように、ぱちりと額を叩く。その隣でカチュアが、
 「大丈夫だよ、二人が残したらワタシが全部食べてあげる!」
 「太るよ」
 ショウの短い指摘に、カチュアは頬を膨らませ、
 「さいてー! 普通、そういうこと女の子に言う? そういうの、デリカシーがないって言うんだよ」
 「だってさ」
 ショウが反論しかけたとき、
 「おおー! すげぇ、うまそう!」
 聞き慣れた声と共に、近くを通りかかったジュナスがテーブルに飛びついてきた。目を輝かせ、涎を垂らさんばかりの勢いである。
 「の、ノーランさん、これさ」
 「ああ、食べるかい?」
 「ぜひ!」
 ジュナスは勢いよくショウの隣に座る。ジュナスを追ってきたシェルドが呆れながら、
 「そんなにがっつくなよ……ノーランさん、僕もいただいていいですか?」
 「ああ、どうぞ」
 「じゃ、失礼します」
 と、ジュナスの隣に腰かけた。
 「うー、取り分減っちゃったなぁ」
 カチュアが少し不満そうに呟く。ショウは呆れて、
 「これだけあれば充分でしょ」
 「はは、足りなかったらまた焼いてあげるよ」
 そう言ってノーランが頭を撫でてやると、たちまちカチュアは機嫌を直した。
 五人はしばらくの間、ケーキを頬張りつつ談笑した。ふと、ノーランが苦笑気味にカチュアの頬に手を伸ばし、
 「ほら、食べかすくっついてるよ」
 と、カチュアの口元を拭き取ってやった。向かい側のジュナスが笑いながら、
 「カチュア、もっと行儀良く食べなきゃダメだぞ」
 「物を口にいれたまま喋るなよ、ジュナス」
 隣のシェルドが冷静に言い、カチュアが舌を出す。
 「べーだ。ジュナスは赤ちゃん用のよだれかけでもした方がいいんじゃないの?」
 「はは、そりゃいいや……案外似合いそうだ」
 カチュアとシェルドが笑い合う。ジュナスは不満そうに、
 「何だよ、二人して」
 「だからちゃんと飲み込んでから言いなって」
 そんなやり取りの間、ノーランは穏やかな目でカチュアを見つめていた。その視線に気付いたらしく、
 「どしたの、ノーラン」
 「ん? いやね、ちょっと、髪の毛伸びてきたなぁって」
 言いつつ、ノーランはカチュアの髪を梳くように指の隙間に通す。そして思いついたように、
 「そうだ、アタシが揃えてあげようか、カチュア?」
 「え、ノーラン、そんなことも出来るの?」
 少し驚いたように、カチュアが目を丸くする。その向かい側で、何故かジュナスが誇らしげに、
 「おう、出来るぞ。俺もいつも切ってもらってるし」
 「君は単に床屋代を浮かせたいだけだろ」
 隣で紅茶をすすりながら、シェルドが微笑む。
 「でも、腕の方は僕も保証するよ。切ってもらったらどうだい、カチュア?」
 「うん、そうしよっかな。ノーラン、あとでお願い」
 「ああ、いつでもいいよ」
 ノーランが気さくに頷いた。
 「でもさ」
 と、カチュアは無邪気な目でノーランを見上げ、
 「ノーランって、何だかお母さんみたいだよね」
 それまで黙って他の四人のやり取りを聞いていたショウは、カチュアの言葉を聞いて何故かびくりと体を震わせた。脳裏を、昨日見たノーランの悲しげな顔がよぎった。ショウはおそるおそる顔を上げ、前に視線を向ける。
 そして、本当に嬉しそうなノーランの微笑みを見たのだった。