【その男、ラナロウにつき】692氏
「ま、待った……」
「十五回目だぞ」
苦しげに呻くエターナに、ブラッドが呆れた様子で返す。二人は今、エターナの私室でチェス板を挟んで向かい合っているところであった。エターナが難しい顔で腕を組んでいるのに対して、ブラッドは文庫サイズの本を読みながらチェスを指していた。
「何でそんなに強いんですかあなた」
慎重な手つきで駒を動かしながら、エターナが抗議する。間髪いれずに、ブラッドが指し返した。
「キサマが弱すぎるだけだ」
きっぱりとした言葉。しかし、エターナは反論する余裕もない様子で、ひたすら板を睨んでいる。
「お、おかしいですね……ええと、ここがこうなってああなるから、こうなるはずだったんですけど」
ぶつぶつと呟きながら、板の上空で指先を動かすエターナ。ブラッドは呆れた様子で嘆息しながら、
「またやり直すか?」
「いいえ。まだまだ、勝負はこれからです」
「私はキサマがどんな手で対応してこようが、五手以内に再び窮地に追い込んでやれる自信があるが」
「またそんな自信過剰な……それなら、ここなんかどうです!?」
「チェック・メイト」
「うぇっ!?」
目をまん丸に見開いたエターナは、手の平を突き出しながら、
「待った!」
「十六回目……」
ブラッドはあからさまに白けた顔をしながら、駒を元に戻す。
「部屋に来た途端にチェスをやろうなどと言うから、余程の腕なのかと思えば……」
「くぅ」
反論できずに歯噛みしながら、エターナはまたうんうんと唸り始めた。
「単に前に言い負かされっぱなしで悔しかっただけか。つまらん」
「い、言わせておけば……ここからが本当の勝負です!」
言いつつ、エターナは勢い良く駒を進める。ブラッドは黙って対応して、
「そういえば、例のゴーストガンダムだがな」
次の手を考えていたエターナの目が、少し細くなった。
「何か分かったのですか?」
「まあ、な。あれに乗っているのは強化人間だそうだ」
「何故?」
「連合の……ルナ・シーンだったか。奴の小隊が部隊行動中にゴーストガンダムと遭遇したそうだ。本物のNTが言うことだ、まず間違いはあるまい」
「と、なると……」
駒を摘み上げながら、エターナがブラッドと目を合わせ、
「サイコミュ兵器搭載のガンダム、と?」
「さて、な。何しろ、今まで連合軍とゴーストガンダムの間には交戦記録が無い。詳しくは不明だが、一つだけはっきりしていることが」
「何です?」
「ゴーストガンダムは木星軍の兵器だ」
駒を持つエターナの手が、空中で一瞬静止した。エターナはため息を吐きながら駒を下ろし、
「間違いはありませんか?」
「記録された映像を解析したところ、機体の随所に木星圏製MSの特徴が認められたそうだ」
「型式などは?」
「MRX-009。私が調べたところによると、サイコガンダムという名称だそうだ」
「サイコガンダム……」
どこか忌諱するように、エターナがその名を口の中で繰り返す。ブラッドはそれを見ながら駒を動かし、
「チェック・メイト」
「えぇ!?」
エターナが身を乗り出して板上を見下ろす。絶望的戦況。
「ま、待った……」
「十七回目……」
心底呆れたと言わんばかりに、ブラッドが嘆息する。エターナは駒を戻してまた唸り始めたが、その時部屋に備え付けられている艦内通信装置のアラームが鳴り響いた。
「艦長、いるかい?」
入り口付近の壁に設置されたモニターに、戸惑った様子のケイの顔が映る。背景はブリッジだ。エターナはどこかほっとした様子でモニターに歩み寄り、
「どうしました、ケイさん?」
「うん。何かさ、エルンストが発艦許可を求めてきてるんだけど……あと、ニキ姉がパイロット連中を召集してくれって」
ケイは釈然としない表情だった。エターナも首を傾げ、
「何かありましたか?」
「うーん、何かよく分かんないけど、カチュアが嫌な予感がするって言ってるとか何とか……」
「そうですか……」
エターナは顎に手を当ててしばし考え込み、
「分かりました、エルンストさんの発艦を許可します。ニキさんの言うとおりパイロットの召集も」
「了解。あ、でもリ・ガズィはまだ直ってないから……」
「そうですね。エリスさんには待機しているように伝えてください」
「はいよ」
頷きを一つ残し、ケイの姿がモニターから消える。エターナは振り返り、
「そういう訳ですから、ブラッドさんも出撃の準備をよろしくお願いしますね」
「フン、ガキ一人の言うことに重きを置くとはな」
ブラッドはため息を吐きながら立ち上がった。エターナはそれを見て機嫌よく笑い、
「決着が着く前にこんなことになって残念ですね」
「何を言う。キサマの負けは明らかだ」
「いえ、勝負はまだついてなかったんですから、この試合はお流れです」
澄ました顔でエターナが言う。ブラッドは皮肉っぽく唇を吊り上げた。エターナが唇を尖らせ、
「何です、その笑い方」
「年甲斐もなく子供っぽいことを、と」
「それ以上言ったらクビにしますよ」
「あーあ、折角の休みなのにぃ。面倒くさいなぁ」
「そんな風に言ってはダメよ、レイチェル。これもお仕事なんだから」
不満そうに口を尖らせながら歩くレイチェルを、隣のエリスが優しく嗜める。
二人は今、デッキに続く廊下を歩いているところだった。
「でも、どうしてお姉ちゃん出撃しちゃいけないのかな?」
「リ・ガズィは修理中だもの」
「ワタシと一緒にサイコ・ドーガに乗れば出られるじゃない」
「無茶言わないの。一人乗りのMSに二人で乗って戦闘だなんて、出来る訳ないでしょう?」
「そうかなー」
納得がいかない様子でレイチェルが口を尖らせたとき、曲がり角の向こうから、口を真一文字に引き結んだシスが歩いてきた。
「あ、シスだ。おーい」
レイチェルが笑顔で手を振る。しかし、シスはレイチェルの姿を認めると、ハッと息を呑み、どこか辛そうに俯いて元来た道を戻って行ってしまった。
「あれ、どうしたのかな。シスー」
シスを追って駆け出そうとしたレイチェルの腕を、エリスが後ろから掴んだ。レイチェルは驚いて振り向く。いつも笑顔を絶やさない姉が、見たこともないぐらいに厳しい表情で、レイチェルを真っ向から見据えていた。
「ど、どうしたの、お姉ちゃん……」
レイチェルは不安げな声で訊く。エリスは表情を和らげぬまま、ぞっとするほど冷たい声で、
「レイチェル、もうシスと話してはダメよ」
「え……」
突然の言葉に、レイチェルは瞠目する。
「ど、どうして?」
「……悪い噂を聞いたの」
「噂?」
「シス・ミットヴィルは狂ってるって。戦闘中に暴走して、味方の一個小隊を壊滅させたことがあるって」
「シスが!? そんな、嘘でしょ!?」
「他にも、ちょっとした揉め事で、諍いの相手に重傷を負わせたとか……そんな危険な人間だったのよ、シスは」
「でも」
「お姉ちゃんも最近聞いたの。だから今までは分からなかったけど、そんな人に近付いてはいけないわ」
エリスは淡々とした口調で断言する。レイチェルは迷うように、シスが去っていった方向と姉とを見比べ、
「だ、だけど、そんなの噂でしょ? だって、シス、いつも皆のこと心配してて……優しい女の子だねって、お姉ちゃんいつも」
「あの子の本性を知らなかったからよ」
弱弱しく反論するレイチェルを、エリスの冷たい視線が黙らせる。レイチェルは俯きながら、
「……わ、分かんないよ、そんなの……だって、シスは友達だし……」
「あの子は悪い子だったの。もう関わっちゃいけないわ。あの子のことは忘れなさい。忘れるの」
「……でも」
なおも戸惑っているレイチェルを、エリスは無感情な瞳で見下ろし、
「……レイチェル、お姉ちゃんの言うことが聞けないの?」
レイチェルは、その身を大きく震わせ、恐る恐る顔を上げた。エリスは何も言わない。何も言わないで、冷たい瞳でレイチェルを見ている。レイチェルの顔が恐怖で歪む。見開いた瞳に涙が浮かんだ。レイチェルは震える手でエリスに縋りつき、
「や、やだ、そんな目で見ないで、お姉ちゃん……」
エリスの瞳は揺らがない。ただ、沈黙の圧力をまとって、レイチェルを見つめている。レイチェルは頭を抱え、
「やだ、やだ、いやだ……ワタシを捨てないで、お姉ちゃん……ごめんなさい、許して、お姉ちゃん……」
レイチェルの涙声を黙って訊いていたエリスは、やがてゆっくりと口を開き、
「……お姉ちゃんの言うとおりにする?」
「……うん」
「シスとはもう話さない?」
「……う、うん……」
「約束よ?」
「うん……だから……」
エリスはしゃくり上げるレイチェルの体を抱きしめた。レイチェルはエリスの胸の中で恐る恐る顔を上げる。見慣れた優しい微笑みが、姉の顔に戻っていた。
「怖い顔してごめんね、レイチェル。だけど、お姉ちゃんレイチェルのことが心配だっただけなの」
幼子に言い聞かせるように、エリスはレイチェルの頭をゆっくりと撫でる。レイチェルは安心しきったように目を閉じ、
「うん……ごめんなさい、お姉ちゃん」
「さっきの約束、忘れないでね?」
「うん……ワタシ、もうシスとは話さない……お姉ちゃんがいてくれればいいもの……」
「いい子ね、レイチェル。大好きよ……」
エリスが耳元で囁く。レイチェルは何の疑問も感じていないような顔で、エリスの胸に顔を埋めた。
「……」
そんな二人の様子を、曲がり角に隠れたサエンが見つめていた。抱き合っている二人の姉妹を、汚い物でも見るような目で見つめながら、不機嫌そうに舌打ちをもらしていた。
息を弾ませてデッキに走りこんできたシスを、入り口付近にいたミンミが目を丸くして出迎えた。
「シーちゃん、どうしたでありますか? そんなに急いで……」
「……出撃だって聞いたから……」
息を整えながら、シスは言葉少なに答える。ミンミは笑いながら、
「シーちゃんは相変わらず頑張り屋でありますな! でも、シーちゃんのBD一号機は一旦待機でありますから、そんなに急がなくてもよかったでありますよ」
「……そう」
シスはミンミの声を聞きながら、何かを探すようにMSデッキを見回す。その視線が、半壊で修理中のリ・ガズィで止まった。
「……ミンミ、エリスさんは……」
「え? ああ、リ・ガズィは修理中でありますから、エリスさんも待機だったはずでありますよ」
それが何か? と首を傾げるミンミに、シスは表情を隠すように俯きながら、
「……レイチェルも?」
ミンミは特に疑う様子もなく一つ頷き、
「あの二人は仲良し姉妹でありますから」
「……そう」
「シーちゃんは偉いであります」
「え?」
シスは驚いてミンミを見た。
「前の戦闘で傷ついたエリスさんのことが心配だったのでありますな。戦友を大切に思う。シーちゃんは優しい女の子でありますなぁ」
そう言って、ミンミは嬉しそうに笑う。シスは俯いて何も答えず、BD一号機の方へ向かっていった。その背中を見ながら、ミンミは頭を掻く。
「……自分はまた何かおかしなことを言ってしまったでありますか? 猛省しなければ……」
シスはBD一号機のコックピットの中で、無言のままシートに座っていた。
「……違うの」
膝を見ながら、ぽつりと呟く。
「……そんなんじゃない。ワタシ、優しくなんかない……レイチェルを、殺そうとしてるのに……」
シスは唇を噛んだ。
「優しいのは、エリスさんとレイチェルの方。ワタシに良くしてくれる……」
両膝を強く握る。
「……ワタシ、レイチェルを殺したくない……二人とも、あんなに仲がよくて、素敵な姉妹なのに……でも、レイチェルを殺さなければ、皆が……どうすれば……」
コンソールに突っ伏したシスが、ゆっくりと顔を上げた。
「そう……一つだけ、方法が……皆が、助かる方法……ワタシは、それを選ぶの。皆を助けるの……それが、一番いい選択のはず……」
――チガウヨ。
不意に、シスの耳に誰かの声が聞こえた。びくりと体を震わせ、シスは周囲を見回す。狭いコックピット。他に人が這いこむ余地など、ない。
――ソレハチガウヨ。アナタモ、イキルノ。ソレガ、イチバンノ……
声が少しずつ小さくなり、聞こえなくなった。シスは目を閉じ、耳を澄ます。しかし、再びあの声が聞こえてくることはなかった。
「……ワタシは人形」
自らに言い聞かせるように、シスは呟く。
「……ワタシは何も感じない。ワタシは何も怖くない。だから、きっと出来るはず……」
その声は、哀れなほどに震えていた。その震えが治まるまで、シスは何度も何度もその言葉を繰り返した。
それを聞いていた者は、誰一人としていない。ただ、モニターの片隅で、起動してもいないEXAMの四文字がゆっくりと点滅していた。