【白の記憶】774310◆EPBN0TfcJw氏



「ジュナスお兄ちゃん!」
 ジュナスは呼ばれたその声で目を覚ました。うっすらと目を開け、声の主を探す。
 やがて覗き込む幼い顔が見えた。
「う…」
 かるい頭痛のような眩暈のような感覚を覚えて、ジュナスはこめかみを指で押さえる。
 だが覗き込んだ幼い少年はジュナスの様子に気付いた風もなく、腕を引っ張って必死に訴える。
「ねぇ、ジュナスお兄ちゃんってば!」
「どうした? ノア」
 ノア。
 少年の名前を呼んで、この子の名前は本当にノアだっただろうかと不可思議な疑問が頭に浮かぶ。
 だがその疑問はジュナスがそうと認識する前に溶けるように消えてしまった。
 ジュナスは腕を引っ張る少年の手を握ると、しゃがんで目線の高さを合わせる。
「何があった?」
「レミニナとマルクが喧嘩してるんだよ。ジュナスお兄ちゃん、早く止めて!」
「またあの二人か…。分かった。どこだ?」
「こっち」
 ノアはジュナスが立ち上がるわずかな時間さえ惜しいというように手を引っ張る。
 それに連れられて辿り着いたのは、みんながよく集まっているホールだった。
 エリッセ、クリエ、スェイ、フォレ、リッチェに囲まれる形でレミニナとマルクが互いに睨み合っていた。
「レミニナ! マルク!」
 ジュナスの声に当の二人以外がはっと振り向く。
 ジュナスはあっという間に五人の子供に囲まれた。
 一瞬、頭の中から子供たちの名前を探す。視界に映る彼らの顔がほんのわずかブレて見えて、二三度瞬きした。
 おかしい、と思う間もなく、子供たちが口々に叫び始める。
「お兄ちゃん! 早く二人を止めて!」
 ジュナスにしがみついてエリッセが泣き叫び、クリエがノアとは逆の手を握って振り回す。
「二人ともあたし達の話なんて全然聞かないの」
 いつもの事と呆れているのか怒っているのか判らないクリエの頭を撫でていると、横からフォレとリッチェがしがみついてくる。
 フォレはひどく不安そうな表情をしていた。彼は周囲の機微にひどく敏感でよく泣きそうな顔をしている。
 リッチェはあまり深刻に考えていないのか、整った愛らしい顔立ちには、これといって不安や怯えは感じられない。
「どうしよう…兄ちゃあん…」
「マルクすごい怒ってるの」
「大丈夫だよ。僕がちゃんと二人を止めるから」
「早くしねぇと危ないぜ」
 スェイが不機嫌に眉をしかめてぶっきらぼうに言い放つが彼も心配していることは分かっていた。
 ジュナスは頷くと、一旦、全員を自分から離す。
 そして睨み合う二人に近づいた。
 


「レミニナ。マルク」
「ジュナス?! なによ、邪魔しないでよっ!!」
 レミニナは勝気な女の子で他の子供たちがジュナスを「お兄ちゃん」と呼ぶのに対して、唯一名前を呼び捨てにしていた。なかなか感情の起伏も激しく、他の子供と衝突することも多い。
 特に、今彼女が睨みつけているマルクとの衝突が一番多かった。
 マルクは無口だがよく考え事をしている男の子で、頭で考えた自分の意見を口にすることが大抵だ。また、そのせいか自然と、他の子のまとめ役になることが多い。
「どうして喧嘩してるんだ? みんな怯えてるぞ」
「ふんっ 怯える奴はね、放っとけばいいのよ」
「レミニナ。そんなこと言っちゃだめだ。何があったんだ?」
 だがレミニナはマルクを睨みつけたまま理由を話そうとしない。
 仕方なく、ジュナスはマルクに同じことを聞いた。
 するとマルクはあっさりと事の次第を話してくれた。
「レミニナみたいな勝手な奴は必要ないって言ったんだ」
「あんた達みたいな弱い奴らに合わせてたら、駄目になっちゃうでしょ」
「俺達は力を合わせて強いものにしないといけないんだ。それが解らないのか」
「協力しろってことでしょー? あんた達があたしに合わせなさいよね」
「お前の力が俺達より強いのは分かってる。だからお前一人が突っ走れば、暴走する危険が高まるのも解ってるだろ」
「暴走して誰かが影響受けて倒れちゃえば、むしろ邪魔者がいなくなって清々するわよ」
「レミニナ!」
 あまりにもあっさり言ってのけたレミニナにジュナスは声を荒げていた。
 突然の大声にレミニナとマルクだけでなく、後ろのスェイらも驚いて体をびくつかせる。
「そんなことを言うのは許さないぞ」
「………な、なに…よ」
 反論しようとレミニナは口を開いたが、ジュナスは真っ直ぐにレミニナを見据え、一切の反論を許さない。
 結局レミニナはそれ以上何も言えず、唇を噛んで俯く。
 一応の収まりがついたと分かり、マルクはふぅ、とひとつ溜息をつくとジュナスを振り返る。
「兄さん。助かった、ありがとう」
「マルク、みんなを少しの間頼むよ」
 ジュナスはマルクの頭を撫でると、彼が頷いてスェイらのところへ行くのを確認してレミニナに歩み寄る。
 レミニナは唇を噛み締め、小さな手で拳を作って立ち尽くしていた。
 ジュナスが呼びかけるが、なんの反応も返さない。
「レミニナ」
「………」
「少し、僕と散歩しようか」
「……いいわよ」
 ジュナスが差し出した手を、レミニナは小さな手で握った。だがもう片方の手はまだ握り拳を作ったまま震えていた。
 


 照明が白い光を放つ廊下を歩く。
 真っ白に塗られた壁に窓はなく、代わりに天井近くに一定間隔で換気口がついている。
 ジュナスは左手にレミニナの小さな手を感じながら、まるで初めて目にする光景を見るように天井や壁に視線を巡らせる。
 どこだろう? ここは。
 唐突に湧いた疑問は、ジュナスの頭に完全に浮かぶ前に消え去った。
「で?」
「ん?」
 突然ぶっきらぼうに放たれた主語も述語もない疑問に咄嗟に答えられず聞き返す。
 それにさえ苛立ったのかレミニナがヒステリックに叫ぶ。
「マルクたちからあたしを引き離して、なんか話したかったんでしょ? それともあたしに対するお説教?」
 そう言われて気付いたが、ジュナスはそんな気はさらさら持っていなかった。なのであっさりと首を振る。
「ううん。別に説教なんてしないよ」
「なんでよ?」
 予想外の言葉にレミニナの肩がかくんと落ちる。それに対しても、考える前にすらすらと言葉が流れるように口をついて出た。
 それは彼女をよく知っていたから。
「レミニナは不器用だから。僕は知ってるよ。一人突っ走っていたのは、力があまり出せない子のフォローをしようとしていたからなんだよね?」
「………」
「マルクはレミニナを協力していないみたいに言ってたけど、レミニナはレミニナなりの方法でみんなの力になろうしてる。でもあれ以上マルクと話していたら、レミニナは自分がすこしも思っていないことを口にして、マルク達もレミニナも傷つくと思ったから止めたんだ」
「……知ってたのね…ジュナス」
「うん」
「なんで?」
「それは…」
 どうしてだろう?
 だがその答えもすぐに出た。
「いつも、僕がみんなを、レミニナを見ているからだよ」
 そう言ってジュナスはレミニナに微笑みかけた。
 レミニナはまた俯いていたが、ジュナスの手を握っていないもう片方の手は、もう握りこぶしをつくっていなかった。
「レミニナ。君は悪い子なんかじゃない。僕が保障するよ」
「………」
「そろそろ戻ろうか」
「…うん」
 ジュナスはレミニナの手を握り直すと、そのまま廊下を歩いていく。
 そのとき、じゎ…とかすかに滲む水のように、記憶の断片が頭の中に映像として浮かび上がる。
 


 真っ白な天井、真っ白な壁、そして真っ白な床。
 窓もなく外の見えない廊下を誰かと誰かが手を繋いで歩いている。
 一人は背も小さな幼い子供のようで、もう一人も子供のようだが小さい子供よりは背丈も年齢も上のようだ。
 二人は白い半袖Tシャツと白い長ズボン、素足に白い靴という出で立ちをしていた。
 まるで汚れなど存在しないと言い切るような真っ白な世界とその住人の二人は、どこかへ続く遠い白い廊下を歩いていた。
 小さな子供が大きな子供を見上げる。
 顔は霞んで見えない。
 大きな子供が、それに応えて笑った気がした。
 顔は霞んで見えない。
 小さな子供と大きな子供の唇が動いて、何か楽しいことを言ったのかお互いに笑っている。
 声は聞こえない。
 誰だ…
 誰だ…
 誰だ…
 誰―――
「ジュナスお兄ちゃん!!」
 ジュナスは呼ばれたその声で目を覚ました。
 うっすらと開けた目に飛び込んできたのは、小さな体を包む白の半袖Tシャツと長ズボンだった。そしてその上の幼い顔。
 気付けばレミニナ、ノア、マルク、スェイ、エリッセ、クリエ、フォレ、リッチェが心配そうに覗き込んでいた。
 真っ直ぐ見た先には真っ白の天井があった。
 ということは、自分は今倒れているのか。
 ジュナスの疑問を感じたのか、ノアが口を開く。
「お兄ちゃん、レミニナと話している最中に急に倒れたのよ」
「びっくりしたんだから…! ばかっ、ばかばか!」
「レミニナ、兄さんは起きたばかりなんだ。静かにしろよ」
「兄ちゃん…」
「ねぇ、おにぃ、大丈夫? 私たちが分かる?」
「兄貴?」
 ジュナスはぼんやりと水の中でも漂っている感覚で七人をそれぞれ見渡した。
 全員が泣きそうな、または不安そうな顔をしている。エリッセなど今にも涙が溢れそうだ。
 マルクでさえ、さきほどレミニナをたしなめたものの不安そうな表情でジュナスを見下ろしている。
 さっきのあれは、この中の誰かを自分が連れていた時の光景なのだろうか―――?
「ごめん…みんな…」
 不安の表情を浮かべるレミニナたちを安心させたくてジュナスは微笑んだが、うまくいかなかったのか誰の表情も晴れることはなかった。
 ジュナスは上半身を起こすと、涙が零れ落ちそうなエリッセの頭を撫でてやる。
「心配させたね。もう平気だよ」
「ほんと? 顔色…悪いよ」
「あぁ。大丈夫だ」
 ジュナスは全く汚れていない白い服の裾を払いながら立ち上がると、全員に微笑みかけた。
「さ、戻ろう。もうすぐ始めないと」
 


 頷く代わりにエリッセがジュナスの手に飛びつく。
 マルクは不安そうなフォレとリッチェの手をそれぞれ引いて、先に歩き出した。その後ろをスェイが頭の後ろで手を組んでついていく。
 クリエもジュナスの手に飛びついて、まるでエリッセと取り合うようにジュナスを引っ張り合う。
 異質の一片たりとも存在を許さないと言わんばかりに白い空間に、子供たちの笑い声が響く。
 そして、それを鎮めるように一番後ろをノアとレミニナの二人がついて行った。
 真っ白―――としか言いようのない部屋の真ん中に、ジュナスと七人の子供は円を描いて座る。
 座り方はそれぞれで、足を伸ばしている子もいれば、きちんと正座している子もいるし、リラックスするように片膝を立てている子もいる。
 ジュナスはあぐらをかいて座ると、七人の顔を一人一人しっかりと見る。
「いいかい? みんな。焦らなくていい。いつもどおりにやろう」
 それぞれがそれぞれに頷く。
 ジュナスはみんなに微笑みかけると、静かに目を閉じた。
 それを合図に、七人の子供も目を閉じて意識を集中させる。
 ジュナスの意識に七人分の意識が流れ込んでくる。
 そこは、光射す水底だった。
 どこまでも澄んだ水の中を、七人の子供は朧げな姿へと変わり、思い思いに歩き回る。
 ふわふわと安定しないのはフォレだろう。所在なさげに揺れ動いてひとところに留まれずにいる。放つ光も今にも消えてしまいそうに弱く頼りない。
 ジュナスはフォレの手を取り優しく導いてやるイメージを頭に浮かべる。
 すると、朧げな姿のフォレは安心したように、今度は一転、安定した輝きを放ち始めた。
 次は、と振り向いた時、あまりの眩しさに思わず目の上に手で陰を作る。
 クリエだとすぐに分かった。彼女の場合は、偏った輝きを放つものだから他の者の妨げになってしまうことが少なくない。
 ジュナスは悪戯好きの彼女の頭をかるく叩くイメージを浮かべて、抑えて、とメッセージを送る。
 漂うクリエがちろ、と舌を出した。輝きが通常まで弱まったところで、ジュナスは自分の意識の中をまた歩き出す。
 視界の端でマルクが目を瞑り集中しているのが見えた。マルクはすっかりジュナスの助けを必要としなくなっていた。
 エリッセも普段の気弱な性分からは想像できなかったが、マルクと同じくらいにこれは上手かった。
 スェイも最初は自己主張が激しく、無意識に攻撃的なイメージを垂れ流してしまい他の子供たちを意図せず襲ってしまうことがあったが、今ではそれを自分で制御できるようになった。
 ジュナスはその調子、とスェイの肩をそっと叩く。スェイが笑い返した気がした。
 リッチェは力自体はそんなに強くないが、一番ぶれも少なく安定している。見ているとどこかほっとするような輝きを放っていた。
 と、ジュナスはハッとして体をそれに向けた。
 他の子たちに影響を与えないように、だが素早く駆けつける。
 寸でのところでジュナスはノアを抱きしめた。ノアが呼吸荒く震える腕をジュナスの腰に回してくる。
 ジュナスの意識の中では、子供たちの様子が密に伝わる。
 ノアははっきりと震えていた。
 落ち着かず何かを恐れるように震え、しっかと痛いくらいにジュナスにしがみつく。今腕の力を抜いたらジュナスが消えてしまう、そう思い込んでいるのではと勘ぐるほどだ。
 ノアは七人の中でも一、二を争うほど力が強いが、それに比例するように『波』がひどかった。
 調子のいい時は余裕綽々といった様子なのだが、駄目な時は全く駄目で、意識体が見えなくなるほど小さく暗い殻に閉じこもってしまうことがあった。
 今回はそれに当たったようだ。
 ジュナスは仕方なく、今回は中断することにした。
「戻ろう」
 


 その一言に、個々に泳いでいた七人が、ある者は不満を口にして、ある者は名残惜しげに、ある者はさっさと、七人七様にジュナスの水底から水面めがけて引き上げていく。
 だが、ノアだけが、嫌がるようにジュナスにしがみついて離れようとしなかった。

 ―ノア。今日は終わりだよ。
 ―………。
 ―ノア?
 ―違う…。終わりじゃない。
 ―なんだって?
 ―ジュナスお兄ちゃん…。
 ―ノア。みんなが心配するよ。
 ―聞いてよ。

 ざわざわとジュナスの意識が粟立つ。光射す水底にたちまち影が射し、まるで深海の底のように暗くなる。
 やばい、とジュナスは瞬時に感じた。

 ―ノア。いけないよ。
 ―ジュナスお兄ちゃん。ジュナスお兄ちゃん。
 ―一緒に戻ろう。ノア。
 ―ジュナスお兄ちゃん。ジュナスお兄ちゃん。
 ―ノア。

 水が濁り、温かさえ感じていた水温がどんどん下がっていく。身を切るような冷たさがジュナスの精神に襲い掛かる。
 水の中なのに激しいサンドストームに襲われたように、見ているヴィジョンがざりざりと音を立てて崩れていく。
 精神感応。
 いやそれどころではない。
 これは、支配だ。
 ジュナスは本能のままにぶつかってくるノアをぐっと抱きしめた。
 このままでは自分もノアも精神崩壊を起こしてしまう。
 ノア一人では、自分が持つ精神能力を負いきれない。
 ジュナスは決断した。

 ―ノア、ごめん。
 ―ジュナスお兄ちゃん。

 ガクッ、としがみついていたノアの体から力が抜ける。精神体のノアが口を大きく開け声にならない声を上げる。
 その体、小さな背中にはジュナスの手がずぶりと潜りこんでいた。
 ノアの精神体、つまりノアそのものに直接接触して無理矢理抑制する方法である。
 だがこれは細心の注意を払わなければ、相手を文字通り壊してしまう。同時に、強い精神力を持っていないとあっという間に呑み込まれてしまう。
 ジュナスはノアの中に入り、まとわりつく闇を掻い潜り、一番奥底を目指す。
 そこに、蹲り、不安と恐怖に怯えるノアがいた。
 少年の名前を呼び、ジュナスは彼に向かって手を伸ばした。
 少年が顔を上げ、ジュナスと視線が交差する。

 ―ノア!



「ジュナスお兄ちゃん!」
 ジュナスは呼ばれたその声で目を覚ました。全身がついさっきまで水の中にいたように汗でぐっしょり濡れていた。
 ここがどこだか一瞬分からず視線が泳ぐ。
「ジュナスお兄ちゃん!」
 もう一度呼ばれてようやく顔を上げる。
「………」
 名前が出てこない。
 目の前の少年は―――
「ジュナスお兄ちゃん!」
 ノアだ。
「ノア…」
 ほっとした。
 ジュナスは自分と同じように汗でぐっしょり濡れた少年の頭を撫でた。
「無事だったんだね」
「うん…」
「そうか。よかったよ。ごめん、手荒な真似をして」
「ううん、俺もごめん…」
「いいんだよ。怖かっただろ」
「……うん…」
「うん。もう大丈夫だからな」
「うん…」
 小さく頷いて抱きついてくるノアを、ジュナスはしっかりと受け止めた。



「『サイコアクティヴ・アグリゲイション計画』…?」
 マーク・ギルダーはニキ・テイラーから聞かされた言葉に眉を顰めた。聞いたことがなかったからではない。
 その言葉の不穏さを感じ取ったからだ。
 ニキが頷いて話を続ける。
「その計画には更に『type-A』と『type-C』があります。AはAggressionの略で、CはComposeの略です。Cはエンジェル・ハイロゥのようなものと考えてください。あれは非常に大掛かりでしたが、それを小規模で成そうというのが『type-C』の中身です。そして、Aはその名の通り、相手を壊すことを目的とした精神攻撃です」
「だがあんたはさっき言ったじゃないか。その計画を進めていた部署は解体され、今は残っていないって」
「はい…。ですが、部署が解体されただけで、その施設やシステム自体は残っているようなのです」
「なんだと?!」
 続けてニキは操作していたノートパソコンにある地点の周辺地図を表示する。
 そしてそれをマークに向けて見せた。
「ここが、その計画の中枢を担っていた施設です」
 艦が停留していた場所からさほど離れていない森の奥深くにそれは佇んでいた。
 白亜のドーム型の建築物はまるで巨大な墓標のように聳え立ち、来る者を拒んでいた。
 マークは腰に挿した銃の感触を確かめるようにしきりにグリップをいじる。それほど、目の前に見えるものは虚としていた。
「ここに…いるんだな?」
 誰が、とは言わなかった。マークはしっかと頷く。
 ラナロゥにはそれで充分だった。彼もまた、銃を持ち懐には鋭利なサバイバルナイフを携えていた。
「行くぞ」
「あぁ」
 二人は静かに禁忌の墓標の中へと踏み込んだ。
 真っ白なのは外観だけではなかった。
 マークもラナロゥも気味悪いほど佇む白を目の当たりにして言葉を失った。ここまで自己主張の激しい、それでいて現実離れした白を見たのは初めてだ。
 だがそれよりも驚いたのは、計画自体はとっくに中止されたというのにドームの中は整然としていたのだ。
 人の手から離れた施設というのは、機器や書類を破棄して証拠隠滅を図るのが普通だが、ここは今もまだ稼動しているように見える。
 だが、それにしてはあまりにも空虚だ。
 世間の一切合財から隔離されたような空間は、現実世界からやって来た二人にも現実を忘れさせようとするかのようだった。
「おい…本当に―」
「しっ」
 マークはラナロゥを制すると耳をすませた。かすかだが人の声が聞こえた気がしたのだ。
 子供…?
 聞こえた声はそう思えた。
 ニキはシステムが残っていると言っていた。つまりシステムに操られ精神操作を受けた人間が残っているということではないのか?
 

「ラナロゥ。じっくり探し回っている暇はないぞ。あいつを探し出して直ちにここを脱出する」
「脱出? 随分と大げさな言い回しだな」
「ここがどういう場所か言っただろう。…危険だ」
「へっ、分かったよ。なら二手に…つーのもよした方がいいな」
「あぁ。 あそこに間取り図がある。あれで見当をつけて進もう」
「了解」
 と、間取り図を振り返った二人の間を何かが通り過ぎた。
 素早く身を翻し銃を向ける。
 だが、そこには何もなく現実離れした白の空間が広がっているだけだった。
 しかし二人は確かに見た。
 銃を向けた瞬間、ほんの半秒ほどだったが子供の後姿を二人は捉えていた。
「………ニュータイプだって非科学的って言われるが、実際にいる。けど幽霊は俺ぁ信じない性質だ。お前は? マーク」
「さぁな。俺は自分の目で見たものしか信じない」
「ってことは…今のは、」
「現実だ」
 幻覚だ、と言い切るのは簡単だ。だが、マークにもラナロゥにもそれができなかった。
 しかし今は目撃した幽霊についてああだこうだしている時間はない。
 マークは銃を収めると間取り図を見て、あるだいたいの位置をぐるっと指で囲む。
「ここがどうやら生活エリアのようだな」
「てっきり何階か層になってると思ったが、一階と二階だけか」
「二階はもっぱら研究エリアで、一階は生活エリアを兼ねているわけだ。行くぞ。まずは生活エリアだ」



「怖いよ…! 助けて、お兄ちゃん!」
 エリッセが恐怖に頭を抱えて蹲る。マルクがその腕を掴んで無理矢理立たせた。
「止まるなッ! 兄さんがどうにかしてくれる! 俺たちは安全なところへ逃げるんだ!」
「で、でもマルク…」
「マルク! ノアがいない!」
「くそっ…!」
「あんた達何してんのよ! こっちよ、早く来なさいよ!!」
 先頭を走っていたレミニナがみんなが来ないのに気付いて戻ってくる。廊下を走る子供は七人。レミニナ、マルク、スェイ、エリッセ、フォレ、リッチェ、クリエだ。
 ほんの数分前、突然静寂を引き裂いてアラームが鳴り響き、七人の子供はパニックに陥った。
 ジュナスになだめられ、どうにか落ち着いたマルクに言いつけられたのは、他の六人を連れて地下のシェルターへ避難することだった。
 あとで自分も行くからと、ジュナスは一人どこかへ行ってしまった。
 正直不安で仕方なかったが、マルクはジュナスに言われたことだからと六人を連れてホールから出た。
 だが不安と焦りで途中、ノアがどこかへ行ってしまったのに気付きもしなかった。
「マルク!」
 いつも明るい顔をしているクリエが泣きそうな声をあげる。
 だが、ここで引き返すことはできなかった。
 マルクはレミニナにクリエとエリッセを任すと、既に泣き出しているフォレの手を握って走り出した。
「シェルターへ…! 地下へ急ぐんだ…!」
 そこへ行けば大丈夫だ。
 きっと…
 きっと…