【白の記憶】774310◆EPBN0TfcJw氏




 外観を見た時にもしやと思ったが、廊下を歩くマークはやはり息苦しさを感じずにはいられなかった。
 この建物には窓がないのだ。
 外側の壁に換気口がこしらえられているだけで、明りとりひとつない。
「おい、ドア開いてるぜ」
 曇りひとつない真っ白な壁をうらめしげに睨んでいたマークは、ラナロゥの声に振り向く。
 銃でラナロゥが指した先は、電子ロック付きの扉だった。だが、普段は厳重に閉じられているだろう扉は今は全開になっている。
「ウェルカム、ってか」
「…入ってみよう」
 ラナロゥの軽口を無視してマークは部屋の中へと足を踏み入れる。
 警戒して銃を構えながらの侵入だったが、その心配は不要だった。
 かつて人間が暮らしていた名残を一切残さず、居住室はひっそりと時を止めていた。ひとつの皺もないシーツが敷かれたボックスマットが壁際に二つ、その間に正面の壁に向かって隣り合う小さな机と椅子が二組ずつ、そして天井には陽の光の代わりである電灯がひとつ。
 それら全てが白かった。
「おい、本当にここにいんのかよ?」
「………」
 さすがの異様さにラナロゥのらしからぬ不安が言葉の端々に垣間見える。
「分からない…。もう少し探そう」
「…あぁ」
 二人は部屋を出ると隣の居住室へ入る。だがそこも、その隣も、さらにその隣も、まるで鏡に映ったものを見ているかのように同じだった。
 実際、ただでさえ現実感のない場所だというのに、生活感の欠片さえ感じられないがらんどうの部屋は気味悪さを際立たせる演出の小道具のようだ。
「くそっ! 何なんだよ、ここはよォ!?」
 四つ目の部屋でついに耐え切れず、ラナロゥが壁を思いっきり殴る。がらんどうの空間にはその音だけが現実のように大きく響いた。
「落ち着け、ラナロゥ」
「てめぇはどうなんだよ?! おかしいと思わねぇのか! どこからどう見たって異常だろうが、これじゃあ!」
「落ち着けって言ってるだろ。ここがどういう場所かは最初に言ったはずだ。『サイコアクティヴ・アグリゲイション』の中枢を担っていたんだ。しかもそれがまだ生きているという以上は、これが俺たちを嵌める罠かも知れないんだぞ」
「ッ…くそっ、分かったよ。……悪い」
 気にするな、とかぶりを振ってマークは四つ目の部屋を後にする。
 さっきはああ言ってラナロゥをたしなめたが、彼が苛立つのも無理はないのだ。彼も似た施設で生まれたようなものなのだ。
 地球連邦がニュータイプに対抗するために生み出した精神や肉体を強化された人間。
 マッド・サイエンスという言葉しか浮かんでこない悪魔の所業。
 ラナロゥ・シェイドはその一人だった。今では強化処理は解けているが、それを受けたという記憶までは消えない。
 マークは一刻も早く目的を果たし、ここを脱出する必要性を改めて感じた。
「何だこりゃ」
 すっかり考え込んでいたマークはラナロゥの驚きの声に我に返る。先に行った彼を見やると、こちらではなく視線の先次の部屋の中を見つめている。
 どうやら次の部屋には今までとは違う何かがあるようだ。
 マークはラナロゥに駆け寄った。
 そして、ラナロゥと同じ方向に目を向けた途端に、あまりの静けさに圧倒された。
 その部屋は、一階の中心部を占めていた。この部屋を取り囲む形で居住室が連なり、施設の玄関がこの部屋の入り口の正反対に位置していた。
 


 部屋は真っ白な天井、真っ白な壁、真っ白な床、やはり白に支配され、ひたすらに現実を拒否したインテリアだった。
 家具と呼べるものも一切ない、単なるホール。
 だからこそ、それは異常に目立っていた。
 ホールの天井、ちょうど施設の中心部にあたる所に大きな円筒形がぶら下がっていたのだ。
 そして、その真下。
 ラナロゥはそれに驚きの声を発したのだ。
 それは、穴だった。
 天井からぶら下がっている円筒形と同じくらいの大きさの穴が、床に空いているのだ。
 そして、その穴には階段がこしらえられ、地下へと続いていた。
「…中枢の中枢、といったところか」
「どうするよ?」
「…まだ二階にも一階の研究スペースにも行っていないが、俺の勘がここだと伝えている」
「決まりだな。てめぇのそれは信用する以外に選択肢はないからな」
 回りくどい肯定に笑みを浮かべ、マークは今一度銃を握った。すぐ後ろでラナロゥも自分の手の中にあるのを確認するように銃とナイフを確認する。
 やはりこのドームに漂う雰囲気が、いつも以上に二人の神経を鋭敏にしていた。
「行くぞ…」
 後ろで小さくラナロゥが頷いた。
 真っ白な階段を真っ白な壁をつたって地下へと降りていく。



「ジュナス…お兄ちゃん……」
 ノアは小さな小さな声でその人の名を呼んだ。
 その顔は眠っているようにも見え、今にも目を覚ましてノアに笑いかけてくれるように思えた。
 だが床に横たわった彼が起きる気配はなかった。
「……また、会えるよね……?」
 応えのない問いかけをして、ノアはそっとジュナスの頬に指を這わせた。
 温もりがあるのかないのかさえ、もはや判らない。
 だが確かなことがある。
 ジュナス・リアムが自分と同じ時間を過ごしていた記憶。心に刻まれた記憶。
 ノアは、ジュナスに抱かれる形になるようにそっと横たわった。
「会える、よね…?」
 ノアが目を瞑ると同時に、うるさいくらい響いていたアラームは止んだ。



 ジュナスは不意に、無性に苦しさを覚えてむちゃくちゃに宙を掻き毟った。
 声にならない声をあげ、ひたすらに叫ぶ。
 いや、違う。叫び声をあげているのは心だ。
 体も心も引き裂いてしまいそうな痛みがジュナスを襲っているのだ。
 だが、ジュナスは激しい痛みの中で、これは自分が実際に感じているものでないことを理解していた。
 これは、誰かが、自分と同じ力を持つ誰かが感じている痛みなのだ。
 誰だ…
 どうして…
 痛い…
 僕は…
 痛い…
 誰だ…
 痛い…
 痛い…
 痛い…
 痛い…
 痛い…
 痛い…
 助けて…
 お願い…
「うわぁああああああ!!」
「ジュナス…!」
 ジュナスは名前を呼んだその声で覚醒した。ばっと目を見開いて夢から現実へ戻ったことを確認するように辺りを見回す。
 が、
 体が動かない。手も足も何かに固定されている。
 じわじわとジュナスの心を不安が支配していく。何がどうなっているのかここはどこなのか自分はどうしてここにいるのか、息が苦しい、どうして、誰だ、ここはどこだ、痛い、あれは誰だ、自分はどうなっているのか、痛い、叫び声が聞こえる、痛い、痛い、誰が、ここはどこだ、どうして、痛い、怖い、痛い、痛い、怖い、怖い、怖い、助けて助けて助けて助けて助けて助けて助け
「ジュナス!」
 もう一度名前を呼ばれてジュナスはハッと我に返った。
 声がした方を見ると額に汗を浮べたマークが覗き込んでいた。その表情には心配と疲労が珍しくも色濃く現れていた。しかもこれもまた珍しく、腕まくりをして上着も着ていない。
「…マ…ク……」
 自分ではちゃんとマークと言ったつもりだったが、声は掠れてろくに発せていなかった。
 声を聞いた途端、マークがあからさまにほっとする。ベッドの縁に手をついてがっくりとうなだれて、溜め込んでいた不安を追い出すように深く息をついた。
「よかった…」
「こ…こ…は…」
「あぁ…艦の中だ。もう安心していいぞ」
 艦の中?
 ジュナスは更に辺りを見回そうとして体を起こす。が、何かに阻まれて起き上がれない。
 ようやくジュナスは自分がベルトでベッドに固定されていることに気付いた。
「すまない。緊急措置でこうさせてもらった」
「…?」
 疲れた様子で溜息をつくように言うマークに、わずかに眉をしかめて疑問を投げかける。
 それが解ったのかマークはあぁ、そうだな、と先がしっとりと汗で濡れた前髪をかき上げた。よく見ると、その手には絆創膏が貼られていた。しかもそれは一つではなく、腕や頬、首筋のところどころにある。
「お前はここに運ばれてから目が覚めるまで随分と暴れてな…。しばらく俺たちで抑えていたんだがあまりにも力が強くて、途中からベルトで固定したんだ。…ジュナス、覚えているか…?」
「………」
 何も、と首を振る。だが力が全くと言っていいほど入らず、意思表示できたかどうかさえ怪しい。
 だがマークは理解したようで「そうか」と頷いた。
「とりあえず目が覚めてよかった。今ドクターを呼んでくるから少しの間待っていろ」
 それに対しても声の出し方を忘れてしまったように、こくりと微かに頷くのがやっとだった。
 マークは安心感を与えるように微笑みかけ部屋を出て行った。
 


 電子扉が閉じて、人の気配がなくなり、部屋に静寂が訪れる。
 だが、ジュナスは生じた静寂と共に訪れた気配を敏感に感じ取っていた。

 ―――君は、誰だ?

 呼ばれている。
 行かないといけない。
 ジュナスは手足を動かした。
 固定された手足の骨が軋み、筋肉が悲鳴をあげる。皮膚が裂け、血が溢れる。
 だがそれでも、

 ―――今、行くよ。

 ついにジュナスは無理矢理ベルトを引きちぎり、ベッドから降りた。
 足首から滴る血がジュナスの素足の跡をぺたぺたと床につけていく。ジュナスは電子扉を開け、廊下へ出た。
 そして導かれるようにふらふらと薄暗い廊下を歩いていく。
 ひっそりと静まり返った廊下に、吸い付く足音だけがこびりついた。

 ―――怖いのか…? 大丈夫だ。今、僕が行くから。

 やがてジュナスは分厚いガラスに隔たれたベッドの前へ辿り着いた。
 ぺた、とガラスに手を置いてその向こうを見つめる。ベルトを引きちぎった時にできた傷から溢れた血は、ジュナスの手のひらを真っ赤に染めていた。
 そしてその血がべっとりとガラスに付着する。
 その血の向こうに、幾本ものチューブにつながれた誰かがベッドの上に横たわっているのが見えた。
「………」
 そのとき、ベッドに横たわっていた誰かが目を覚ます。
 誰かは酸素マスクを取りさり、腕に繋がれた何本ものチューブを引きちぎりながら起き上がる。
 そしてまるで骸骨のように痩せ細った脚を床へと降ろし、ぺた、ぺた、と歩く。
 分厚いガラスに隔たれて音など聞こえるはずもなかったが、ジュナスは確かにその足音を聞いた。
 その誰かは、真っ直ぐにジュナスへ向かってきた。
 そして、ようやくジュナスの血の向こうから顔を見せた時、ジュナスは声を聞いた。

 ―――助けて……

「ジュナス!!」
 ジュナスは名前を呼んだその声で我に返った。いや、正しくはその場に力を失ってくずおれた。
 マークが駆け寄り慌てて脇の下に腕を滑り込ませて助け起こす。
「何をやってる!」
 随分軽くなった気がするジュナスを抱えながらマークは思わず声を荒げていた。
 部屋へ戻ったマークが見たものは、血に染まったベッドと廊下の向こうへ続く血の足跡だった。何が起こったのかと心配して駆けつけてみれば、ジュナスは真っ赤に染まった手をガラスに置いて呆然としていたのだ。
「ギル……そこ…誰が……」
「そこだって? お前…。あの向こうは外だぞ」
「そと…?」
「お前の今の状態についてはちゃんと説明する。だから今はじっとするんだ」
「でも…」
 だがマークはジュナスの反論を認めなかった。
「とにかくドクターの診察を受けろ」
 と切って捨てる。
 だがマークに抱えられたジュナスはぼそ、と小さな小さな声で呟いた。
「『ドクター』はきらいだ…」
 その口調は幼い子供のようだった。
 


 ジュナスは、容態は一応安定はしているがしばらく静養する必要があると、絶対安静を言い渡された。
 マークはドクターを部屋の出口で見送り、すぐにジュナスの傍らへ戻る。
 目を離しては危険だというのが十二分に解ったのだろう。片時も離れまいとするのがひしひしと伝わってくる。
 だがジュナスはそんなマークよりも、血とガラスの向こうに見た『誰か』が気になっていた。
「…眠れないか?」
 そんなジュナスを勘違いしたのか、マークが優しく声をかける。
「安心しろ。一人にはしないさ」
「………」
「あと少ししたらラナロゥも来る」
「ラナロゥ…が…?」
 一瞬、脳裏にぶっきらぼうな表情が浮かぶ。だがそのラナロゥは白い半袖Tシャツに長ズボンを履いていた。
 と、そこにピピッ、という電子音が被さる。
『俺だ。入っていいか』
「噂をすれば…だな。 あぁ」
 エアーが抜けて扉が開く。起きた時の格好でそのまま来たのだろう。タンクトップにジーンズ、バンダナもつけていない姿は珍しい。
 そして彼もまた、マークと同じように腕や首筋、頬に浅いものから深そうなものまで傷をつくっていた。
 マークと違うのはかるい傷には絆創膏などで手当てした様子がないくらいだ。
「よぅ、ジュナス。久しぶりだな」
「………きず…」
「あ? あぁ、気にするなよ。こんなのは掠り傷だからな」
「…やっぱり…僕が…」
「だから気にするなって」
 ラナロゥの手が乱暴にジュナスの頭を撫でる。ぼさついた髪を直そうという気も起こらず、ジュナスはマークへ視線を移す。視界の隅でラナロゥが手近な椅子に座った。
「ギルの…それも…僕が…?」
「ひどい暴れようだったんでな」
 気にしないように素っ気なく言って、マークはジュナスの肩をかるく叩く。
 二人をこんなにも傷だらけにするほど自分は力が強かっただろうか、と一瞬考える。そういえばさっきも拘束していたベルトを手足首を血だらけにしながらも引きちぎった。
 一体、どこからそんな力が……。
 ジュナスはじくじくと疼く傷に意識をとられそうになりながらも考え込んだ。
 そういえば、とラナロゥがマークに耳打ちする。
 目を瞑って考えにひたりかけたジュナスは目を開けた。
 声は小さく会話は聞き取れなかったが、あまり良くない内容のようだ。聞いているマークの表情がどんどん険を含んでいく。
 そして何か決定的な一言を聞かされたのか。
 マークはハッとラナロゥを見据え、ラナロゥはそれに頷き返した。
 そうか…分かった。マークはそう言うと溜息をひとつついて、ジュナスに向き直る。
 眠ったと思っていたのだろうか見つめていたジュナスに少々驚いたようで、マークは一瞬驚いた表情を見せたがすぐに平静を装った。
 だがその表情の変化を、ジュナスは認識することができなかった。
 さっきドクターに処方された薬剤が効果を表し始めたのか。うつらうつらと意識が途切れかけているのだ。
 睡眠薬でも飲まされたのだろうか…。
 じくじくと吹き出すような手足の痛みが逆に何倍にも増幅されて気持ちが悪い。
 ふと、視界に影が下りる。
 目を瞑ったのではない。マークの手が額から目元へと下りてきたのだ。
「ゆっくり休め…。俺たちがついていてやる」
「そういうことだ」
「………」
 答える前に、ジュナスは眠りへと落ちていった。



 今度こそジュナスが眠ったことを確認したマークは、ラナロゥにその場を任せてニキのところへ来ていた。
「その少年が言うには、自分はジュナス・リアムと一緒に過ごしていたそうです」
「だがその期間が問題、というわけか…」
「はい」
 ニキは頷いて簡単に話をまとめたものを手元に置きながら説明を続ける。
「少年が言った期間は、数ヶ月から半年。しかしジュナスが行方不明になったのは…」
 マークがその言葉尻を拾う。
「ほんの二週間前…」
 こくり、とニキが頷いた。
「計算が合わなさ過ぎる。大方、そいつの記憶違いだろ。ジュナスがあれだけ混乱していたんだ。あいつだって何か操作を受けているはず―」
「その事ですが、彼には何ら操作を受けた形跡はありませんでした」
「なに?」
「つまり、彼は正常な精神状態であり単に衰弱していただけということです」
「……ちっ、訳が分からないな…」
「あのドームにジュナスと共にいた少年、名前は……」
 ニキは手元の紙面に視線を下ろす。
 目当ての名前を見つけ、あぁ、と声をあげる。
「アルクス。彼もしばらくこちらで様子を見た方がいいですね」
「…あぁ」
 マークは意識半ばでニキの話に頷いたが、もう半分では一昨日のドームでの出来事を思い出していた。
 一階中心部の真っ白なホール。そこから地下へと続く階段を降りた二人が目にした光景は凄まじいものだった。
 二人とも凄惨な光景というのは何度か目にしたつもりだったが、それを丸々覆すような光景がそこには広がっていたのだ。
 あれは墓標だった―――いや、意図せずしてそうなってしまった朽ちた人の意志だった。
 階段を降りた二人を待ち受けていたのは、さきほどのロビーと同じくらいの広さの部屋で、その壁に規則正しく並ぶ真っ白な柱だった。
 だがその柱は何も支えておらず、かといって装飾品というにはこのドームには逆に異様過ぎる。
 そう思ったマークは柱に近づいて気付いた。
「ラナロゥ!」
 期待外れだと苛立ちを隠そうともせず部屋の中をうろついていたラナロゥを呼び寄せると、マークは目の前の柱を一本指差した。
「あぁ? 何だ?」
「…見てみろ」
 そう言う彼の顔色は青ざめていた。
 訝りながらもラナロゥは柱に近づいて、あるものに気付く。
 その柱には長方形のプレートがついていたのだ。いや、プレートではない。これは―――
「覗き窓?」
 そしてラナロゥはマークの顔色が悪い理由もろくに考えずに、人間の本能に従って覗き窓の向こうを覗いた。
 そこにはガリガリに痩せこけたミイラが苦悶の表情を浮べて腐った水の中を漂っていた。
「うわっ!!」
 思わず悲鳴をあげて後ずさる。ぐっと胃の辺りが突っ張るような感触がこみ上げ、喉がぎゅう、と鳴る。
 目にしたのはほんの一瞬だったが、光景は網膜に焼きつき脳に充分すぎる強烈な印象を残した。
「…こいつらは…」
「おそらく『サイコアクティヴ・アグリゲイション』の犠牲者だ…」
 マークは口にするのも忌々しいというように吐き捨てた。
 


「このカプセルは精神感応力を向上させるための装置なのかもな…」
 脂汗を浮べながらも冷静に分析するマークに、ラナロゥがはっとして声をかける。
「待てよ…おい。システムはまだ動いてるって言ったよな…?」
「あぁ」
「なら…まさか今は奴の力で動いてるのか…?」
「いや、違うだろう。もしそうなら、俺とお前が無事でいられるはずがない。現状では、システムは稼動していないと言い切れる」
「なら、あいつは…、ジュナスはどこにいる?」
「……このカプセルのどれかに入っているのかもしれないな…」
「………」
 一つ一つ確認しなければならないのかと考えると、また胃の辺りが締め付けられる気がした。
 それはマークも同じだったが、そうも言っていられない。マークはざっと壁に並ぶカプセルを見渡す。と、真っ白な部屋だったから気付きにくかったが、かすかに青い光が二つのカプセルの上に灯っていた。
 マークは反射的にそのカプセルへ駆け寄った。ラナロゥも気付いてそれに続く。
「ジュナス!!」
 駆け寄ったカプセルの中に、ジュナスはいた。
 淡い青い水の中で目を瞑ったまま漂い、全く反応しない。だが生きていることを示すように、時折唇の端から小さな気泡が上へ上った。
「こっちの奴も生きてるぜ!」
 ラナロゥが叫ぶ。
「くそぉっ! これどうやって開けるんだよ!?」
 バンッ、とラナロゥが乱暴にカプセルのハッチを叩く音を聞きながら、マークは冷静に何かあるはずだと探していた。そしてカプセルの下、カプセルとカプセルの間の床に操作パネルがあるのに気付く。
 放っておけば実力行使に出るだろうラナロゥに急いで指示を飛ばす。
「ラナロゥ、すぐ横にパネルがあるだろう。それだ」
「パネル!?」
 だが指示を飛ばしたものの、ボタンもスイッチも数が多く、一見しただけではどれがどれか分からない。だがよくよく見てみると、このボタンが何の役割を果たすのか簡単に一言つけられていた。
 マークは素早くそれに視線を巡らせ『OPEN』の文字を見つけると、そのすぐ上のボタンを押した。
 ハッチは空いたが、排水しないまま開けてしまったため大量の水が溢れ、それに押し出されるようにジュナスが倒れる。
「ジュナス!」
 寸でのところで、マークはジュナスが床に倒れるのを防いだ。
 だがぐっしょりと濡れた髪、青白くやつれた頬、力の抜けた身体は随分と軽く感じられた。
「ジュナス…!」
 まさかという思いが頭を過ぎったが、頚動脈に手を当てると弱々しくはあったが脈もあり、口元に耳を近づけると微かに呼吸をしているのが分かった。
 だが体は冷たく、このままでは危険なことは一目瞭然だ。
 そのとき、マークの耳にかすかな、ほんの少しの風でも吹けば消えてしまいそうな小さな声が滑り込んできた。
「に…ぃ…さん……」
 この場に相応しくない言葉にマークは顔を上げ声がした方を見る。
 ラナロゥに半ば抱えられた少年が、ジュナスに向けて手を伸ばしていた。だが虚ろな目がジュナスを求める姿に、マークはなぜか戦慄を覚えた。
「に…さん……」
 少年はもう一度ジュナスに向かってそう言うと、がっくりと力尽きてしまった。
 ラナロゥがはっとして慌てて呼吸や鼓動を確認するが、気を失っただけだと分かりほっと胸を撫で下ろす。
「とりあえず艦に連絡する…。その少年も…一応連れて行こう」
「あぁ…そうだな」
「ここで何が起こっていたのか知っているかもしれないからな」
 わざわざ口に出して言ったのは、胸を鷲掴みにするようなざらついた不安を認めたくなかったからかもしれない。
 何か根拠を感じたわけではない。
 だがマークは、彼が持つニュータイプと呼ばれる力でそれを感じていた。
 そうして、ジュナスは行方不明になってから二週間後に、『サイコアクティヴ・アグリゲイション』の研究施設から救出された。
 しかしジュナスとジュナスを『兄さん』と呼んだ少年、この二人がなぜその施設にいたかはまだ解らない。
 マークはニキにジュナスのところへ戻ることを告げると、部屋をあとにした。
 部屋を出る前に、ニキが少しは休んでください、と言ったがそれは聞かなかったことにした。
「ぐっすり寝てるぜ。薬が効いてるんだな」
 医務室に入るなり、ラナロゥが片手を挙げた。
 そうか、とジュナスの落ち着いた寝顔を確認して、マークは椅子に腰掛ける。
「あっちの方は最初起きてちょっと話してからまたぶっ倒れて、それから目ぇ覚まさねぇんだとよ」
「…今、ちょうどその話をニキとしてきたところだ」
「なんて言ってた」
「とりあえずは様子見だ。ジュナスもこの調子だから無理はさせられない。かといって、あのアルクスという少年も同じような状態だ……質問をしても具体的な答えは望めないだろう」
「そうだな…。なぁ」
「何だ?」
「…ドクターは後遺症については何て言ってた?」
「…判らないそうだ。ジュナスには安定していると伝えたが、実はまだかなり混乱している。可能性としては充分ありえる、というのが今のところの見解だ」
「嘘だろ…。何か対処する方法はないのかよ」
「正体そのものが分からないんだ。明確な対処法なんてあるわけないだろ」
「ちきしょう…!」
「下手をすれば…ジュナス本人の精神力に全てを任せる羽目になるかもしれない」
「……ジュナス…」
 ラナロゥは、自分の弟のように思っているジュナスを今はただ見守ることしかできないのが悔しくてならなかった。





 



 誰かがいた真っ白のホールにジュナスは立っていた。
 かすかに残った誰かの気配は消えようとしていて、どうにか捉えようと伸ばした手の隙間からどんどん零れ落ちていく。
 その誰かに呼ばれているような気がしたのに、それさえも忘れてしまいそうだ。
 だんだん、本当にここに誰かいたのかと疑問が湧き上がる。
 だが、そう思う頭の端で、ジュナスは自分も最近ここにいたことを覚えていた。
 だがそれは一人じゃなかった。
 たくさんの誰かと一緒に…このホールで、たしかに……。
 意識を失う前、そのうちの一人が寄り添った気もしたのに…今は何も思い出せない。





 目を開けると、白い天井が見えた。
 さっきの真っ白のホールとは違う、また別の天井だ。
 そこまで考えて、ジュナスはさっきのって何だ? と考える。だがいくら考えても、答えは出なかった。
 そして考えているうちに『さっきの真っ白のホール』という言葉は頭の中で薄れて消えていった。
 そのとき、ふと、じくじく痛む手に温かいものが触れているのに気付く。
 視線を手元に下ろすと、誰かが手を握っていた。
 その手を伝い、腕を伝い、肩を伝った先には、マークが突っ伏していた。
「ギル…?」
 かすかに上下する肩が彼が眠っていることを示している。
 なんとなくほっとした後に、ふと部屋が明るいことに気付いて、光を追って壁へ目を向ける。窓から陽の光が射しこんでいた。
 なぜかひどく久しぶりな気がして、ジュナスはまた変な気分になる。
 なんだか頭の中に靄がかかったようにはっきりしないのだ。久しぶりな気がするのはどうしてか考えると、その靄が更に濃くなって、まるで出口のない迷路へ押し込まれたようだ。
 そのとき、ピピッ、と電子音が鳴って部屋の扉が開く。
「マーク、ジュナスの容態はどうで…すか…」
「ニキさん」
「ジュナス。マークは…寝てしまっているのですね」
「はい。あの…」
「調子はどうですか? 気分が優れないとかどこか痛いところはありませんか?」
 半ばジュナスを遮るように言って、ニキは椅子を引き寄せてベッドの近くに腰掛けた。
「いえ…何だかふらつく感じがするだけで、他に特には…」
「そうですか。それならよかった」
「あの、ニキさん」
「ジュナス」
 またもや遮るようにされ、ジュナスは口を閉じた。ニキの目が続けることを許さなかったのだ。
「あなたがいろいろ聞きたいのは分かります。ですが、今は自分の体を大事にしなさい」
「けど分からないことだらけで、このままじゃ休むものも休めませんよ!」
「あなたの気持ちは分かります。ですが、これはドクターと相談した結果決めたことなんです。そしてこれは、この艦の艦長としての命令です」
「そんな頭ごなしじゃあ納得しないだろう」
 突然割って入った声にニキは開きかけた口を閉じた。
 マークが長い前髪をかき上げながら身体を起こす。こんな場所で眠っても疲れがとれるはずもなく、顔にはまだ疲労が色濃く残っていた。
「正直に今のジュナスの状態を話すべきだろう」
「ですが…」
「あんたが思ってるほど、こいつはやわじゃないさ」
「…分かりました」
 しばらく考えていたが、やがて、はぁ、とニキは溜息をつくと、マークにジュナスを連れて一緒に来るよう言った。
 そしてマークに支えられてジュナスが連れて行かれたのは、二つ隣の医務室だった。
「誰かいるんですか?」
「あぁ。お前の二週間の空白を埋める鍵となるかもしれない奴だ」
「二週間…?」
「そうだ。お前は二週間、行方不明だったんだ」
 二週間…。もう一度口の中で呟く。
 マークはそんなにも日にちが経っていたことにショックを受けたのかと思ったが、そうではなかった。ジュナスの頭には、たったそれだけだったのか、と全く正反対のことが浮かんでいた。
 もっと長い間一緒にいた気がする。
 突然浮かんだそれに、ジュナスははっとした。
 

 誰と?

 一瞬、耳に幼い子供たちの笑い声が聞こえた気がした。
 だが次の瞬間、呑み込まれそうな強い感情がジュナスに押し寄せる。
 それは悲しみに打ちひしがれ、寂しさに蝕まれ、絶望に浸った者の叫びだった。
 凄まじいまでの痛みが心に突き刺さる。
 ジュナスは声にならない声を上げて、その場にくずおれた。
 つられてジュナスを支えていたマークも膝をついて、なにか言っているが何も聞こえない。
 なぜか涙が溢れ、心を、痛みが、悲しみが、絶望が、埋め尽くしていく。
 涙で滲む視界の先に、ニキが開いた扉が見えた。
 そしてその向こうに立つ誰かの足が見えた。
 ジュナスは痛みをこらえ、その誰かに手を伸ばす。
 真っ白な半袖Tシャツに長ズボン、素足、その誰かの顔を見ようと頭をもたげる。
 だが、それを目にした瞬間、ジュナスは絶叫していた。
 そしてジュナスの意識は、闇の中へ落ちていった。
 そんな彼を、真っ白な服に身を包んだジュナス・リアムが見下ろしていた。
「ドクターを呼んできます! マークはジュナスを!」
「分かった!」
 ニキが扉を開けた瞬間、ジュナスは絶叫しわずかに開いたドアの先を見つめていた。
 そして次の瞬間、涙を流し、床にくずおれ、耳ではなく心を劈くような叫び声をあげ意識を失った。その直前に、ジュナスはドアの先に手を伸ばしていた。
 まるでそこに誰かがいるように。
 だがドアの先には、いくら目をこらしても誰もおらず、ただ医務室のベッドに横たわる人物の容態を示す医療機器の音が響くだけだった。
 そしてベッドに横たわる少年、アルクスはこの騒ぎのさなかであっても目覚める気配はなかった。