【I know you】 692氏



「お前はいいよなージュナス」
唐突にそんな話を振られて、ジュナスは目を瞬いた。
「なんの話、ラナロウ?」
「決まってんじゃねぇか」
その男ラナロウ・シェイドは、普段の自信ありげな態度が信じられないような照れ笑いを顔に浮かべながら、
「エリスちゃんだよ、エリスちゃん」
「ああ」
ジュナスがうんざりしたようにため息を吐くと、ラナロウは顔をしかめた。
「何だよ、その気の抜けた返事は」
「別に」
「そりゃお前はいいよなー、何たってエリスちゃんの幼馴染だしよー」
「そうだそうだ、全く羨ましい奴め」
いつの間にやらその場に現れていたサエン・コジマが、ジュナスの首に腕を回してきた。
「ちょ、やめてよサエン、苦しいってば」
「いーや止めない。この基地で唯一エリスちゃんと気軽に話せる男なんだぜお前は」
「自分が恵まれてるってことをちっとは自覚しろ」
ラナロウもまた、ふざけて頭を小突いてくる。そのとき、不意にサエンが歓声を上げた。
「エリスちゃん!」
叫びながら、サエンはあっさりと拘束を解く。前のめりに転びそうになり、ジュナスは慌てて体のバランスを取った。
顔を上げると、通路の曲がり角からエリス・クロードが出てくるところだった。
しずしずと歩く姿も、サエンに気がついたときのおっとりとした微笑みも、実にさまになっている。
「あら、こんにちは、サエンさん」
「やあこんにちはエリスちゃん。こんなところで会うなんて奇遇だねー」
「いやホントホント」
「ラナロウさんも、お元気そうですね。この前の戦闘で怪我をされたって聞いて心配していたんですよ」
「ははは、俺にとっちゃあんなもんかすり傷だぜ」
「まあ」
口に手を当てて控えめに笑うエリスを、ジュナスは遠目に眺めていた。そんな白けた視線に気づいたかのように、エリスがちらりとこちらを見た。一瞬だけ、目が合う。エリスの意図を察して、ジュナスはそそくさとその場から退散した。

「オッス」
ジュナスが自室に戻ってくると、中には既にエリスがいた。
壁際の簡易机に座って、こちらに向かって片手を上げている。挨拶というよりはチョップのように見えてしまうのは、ジュナスが子供のころから彼女を知っているからだろうか。
「何か用、エリス?」
うんざりしながらジュナスが言うと、彼女……この基地一番の人気者であるエリス・クロード譲は、にんまりと実に意地悪そうに微笑んでみせた。



I know you



「お茶ぐらい出しなさいよ、気が利かないわねー」
簡易机に寝そべったエリスが、不満げに頬を膨らませる。ジュナスは肩をすくめた。
「自分でやればいいじゃない。いつもそうしてるんだしさ」
「あ、なーによその態度。自分がこの基地のアイドルと話してるって自覚あるの?」
「サエンみたいなこと言うなよ」
小さな棚に手を伸ばしながら、ジュナスは顔をしかめた。エリスが口を開けて笑う。
「そうそう、見てたわよね、さっきの。二人とももうあたしにメロメロってやつよね」
「ずいぶん古風な言い方だね」
ジュナスは棚からティーポットとカップを二つ、そして紅茶の葉が入ったビンを取り出した。小型ポットの電源は常時オンにしているので、お湯は既に準備できている。一度熱湯を注いで温めたあと、改めてティーポットにティースプーン二杯分の紅茶の葉をいれ、再度熱湯を注ぐ。エリスが感心したように頷いた。
「さすがに慣れたもんね」
ジュナスは皮肉っぽく笑った。
「誰かさんが、この部屋に来るたびに紅茶が飲みたいってうるさくするもんでね」
「つまり、『僕の腕が上がったのはエリス様のおかげです、ありがとうございました』と、そういう訳ね?」
「別にいいよそれでも」
ジュナスがさらりと流すと、エリスは唇を尖らせた。
「もうちょっと面白い受け答えできない?」
「悪いね、誰かさんみたいに演技がうまくない性分で」
嫌味のつもりで言うと、エリスは自慢げに笑った。
「そうね、今のあたしならアカデミー賞だって目じゃないわ」
ジュナスは苦笑を返すだけである。エリスの言っていることは、否定できない事実だったからだ。

ジュナスとエリスは、この基地に勤務している地球連邦軍の兵士である。もっと言うと、今やどんな兵士よりも重要な存在となったMSパイロットだ。
今の戦争が始まって、既に一年以上の月日が経過している。当初劣勢だった地球連邦軍は、V作戦の成功によりMSの量産にこぎつけた。
連邦側MSの登場により、敵対勢力であるジオン公国軍はMSの性能による絶対的な有利を失い、徐々に戦線を後退させつつあった。
ジュナスとエリスが配属されたこの基地にも、その影響は確実に現われていた。

「それにしても、最近は楽になったもんよねー」
紅茶片手に、簡易机に座ったままのエリスが呟いた。ベッドに腰掛けたジュナスもまた自らの淹れた紅茶の味に満足しつつ、カップから口を上げて答える。
「そうだね。ここ一週間ほど戦闘らしい戦闘もないし」
「つまんないっちゃつまんないけどね」
「いいことじゃないか。地上からジオンが一掃されれば、きっと僕らの役目も終わって、また町に帰れるよ」
生まれ故郷の町を思い出しながら、ジュナスは目を細める。あの町から出てきたのはほんの数ヶ月ほど前だが、今となってはずいぶん昔のことに思える。ふと見ると、彼とは逆にエリスは嫌そうに顔をしかめていた。
「帰りたいの、あんなとこに?」
「そりゃ、生まれたところだし」
当然のように答えると、エリスはうんざりした様子で肩をすくめた。
「あんたって、ホントにつまんないわよね」
「別にいいよ、つまんなくても」
「野心とか、向上心とか、そういうの? ちょっとは持ったら?」
「そんなの、なくたって生きていけるだろ」
「意気地なし」
「強欲よりはマシだよ」
紅茶を飲みながら受け流すジュナスと、不満げに顔を背けるエリス。
一応幼馴染とは言え、二人は一時が万事こういう調子だった。
(そうか。やっぱり、エリスは戻らないのか)
ジュナスは不意に寂しさを覚えた。何となく、予想していたことではあったが。
「っていうかさ、あんただってそうよ」
「なに?」
感傷にひたっていたジュナスは、エリスの声によって急に現実に引き戻された。見ると、エリスがこちらに横顔を向けたまま、さして重要な話でもなさげに口を開いたところだった。
「あんな町には戻らせないわよ」
数秒、その言葉を頭で噛み砕いて、
「は?」
「あんたには、まだやってもらわなくちゃならないことがあるの」
「なにさそれ」
「あたしのマネージャー」
また、ジュナスは数秒考え込んだ。
「秘書の間違いじゃなくて?」
「違うって。ま、あたしの実力なら、このまま軍人やってたって大出世間違いなしだろうけどー」
エリスの口振りはいちいち自信ありげだったが、事実だとも思ったのでジュナスは何も言わなかった。
そんな彼の瞳を、エリスはじっと覗き込んだ。
「アイドルよ」
「はい?」
急に聞きなれない単語が出てきたので、ジュナスは思わず聞き返していた。
「なんだって?」
「だから、アイドル」
「アイドルって、あの歌ったり踊ったりの?」
「そ。あたし、戦争が終わったら軍抜けてアイドルになるわ。歌って踊って戦えるアイドル。どう思う?」
「馬鹿じゃないか」
「コラ」
いつの間にか隣に来ていたエリスが、ジュナスの頭を小突く。言っていた内容の馬鹿馬鹿しさとは裏腹に、瞳の色は真剣そのものだった。
「本気なの?」
「当然。そして、宣言した以上私が必ずやり遂げることは、あんただって知ってるわよね?」
「そりゃまあ、ね」
不承不承、ジュナスは同意した。
実際、エリスが何かを宣言したとき、それが実現しなかったことはないのだ。
十歳のときにいつか町を出てビッグになると言い出したときも、数ヶ月前、唐突に軍人になると叫んだときも、この基地に配属になったとき、基地中の人間全員を味方につけると話したときも。
「それに、あたしの演技力なら清純派気取るのなんて簡単だしね」
「清純派で行くつもりなんだ」
「そりゃそうでしょ。他に何があるの?」
「いや、こういう、素の自分を見せて毒舌路線で行くのかと」
エリスは苦笑して手を振った。
「それはないって。それに、おとなしい女の子でいた方がウケるってのは、この何ヶ月かで証明されたし」
「まあ、ね」
頷きながら、ジュナスはちらりとエリスの横顔を見上げた。
「ねえエリス」
「なに?」
「前から聞こうと思ってたんだけど、どうして皆の前ではあんな演技してる訳?」
あんな演技とは、言うまでもなくジュナス以外の人間に見せる「おとなしいエリス」の姿である。
基地に配属になったときから、「自分はこういうキャラで通すから、あんたもそのつもりで合わせるように」と一方的に命令され、断る理由もなかったので一応協力していたのだ。そんなことをする理由を、エリスは一度も話していなかった。
「聞きたいの?」
エリスは空になったカップを手で弄びながら聞いてきた。その横顔が、今までに見たことのない色を帯びているようで、ジュナスは少し躊躇った。
「そりゃ、聞きたいよ」
迷いながらもそう答えると、エリスは立ち上がった。簡易机の方に歩きながら、ジュナスに背中を向けたまま言ってくる。
「いろいろあるけどね。一言で言っちゃうと、好かれたいから、かな」
「好かれたい?」
「そう。あたしの生まれは知ってるでしょ?」
エリスは肩越しに振り返ってジュナスを見た。その目元が、数年前までと変わらぬたくましさを持っているのに気づき、ジュナスは自然に頷いていた。
エリスはスラム街出身だった。ジュナスの家もあまり裕福ではなかったが、それでもエリスよりはマシだったと断言できる。そのぐらい、エリスは貧しかった。
子供の頃のエリスと言われて思い出せるのは、今の姿からは想像もできないぐらいにみすぼらしい格好の、やせ細った子供だけだ。つぎはぎすら間に合わないボロボロの服、薄汚れた素肌、傷だらけの腕。
ただ、挑戦的で自信に満ちた瞳だけが、今と少しも変わっていない。
「でもね、やっぱり寂しかったのよ」
「寂しい?」
「嫌われ者だったからね、あたし」
エリスはジュナスに背を向けたまま肩をすくめる。
実際、エリスは嫌われ者だった。エリスが公園に現われると、近所の子供達は汚い汚いと騒いで石を投げつけたものだ。それでもひるまずに向かってきて敵を蹴散らしていた姿も、ジュナスはよく覚えている。
「子供の頃はそれでもいいと思ってたけどね、一年前ぐらいかな、考えが変わったの」
「どうして」
「死んだのよ、おじさんが」
ジュナスに体の側面を向けて、エリスは遠くを見るように目を細めた。
「あの冬、寒かったわよね」
「そうだね」
「ゴミ山に埋もれたおじさんを、省みる人はいなかった。あたしと同じように嫌われ者だったから。おじさんの死体を見ながら、あたしはこんな死に様は嫌だって、そのとき初めて思ったの」
エリスは人に好かれたいと願い、努力した。それでも、町でエリスを好きになる人はほとんどいなかった。それは生まれのせいもあったし、惰性のためでもあった。どんな姿を見せられようが、エリスを好きになろうと思いつく人すらいなかったのだ。
状況が変わったのは、戦争が始まってからだ。ジオンの脅威に怯える町の人を見て、エリスは真っ先に軍に志願した。そしてMSパイロットとしての凄まじいまでの適正を見出され、この基地に配属されたのだ。
自分の生まれを知る人がいなくなったことは、エリスにとっては大きなチャンスだった。そこそこの家に生まれた心優しいお嬢さんとして振る舞い、皆に受け入れられているのだから。
「ま、この基地でのことはまだ第一段階ってやつね。見てなさいよ、その内世界中の人があたしの虜になるわ」
エリスの語る野望を、ジュナスは黙って聞いていた。
この基地に限って言えば、エリスの目論みは成功していると言っていい。
ラナロウやサエンのような軽い男のみならず、おとなしい性格のシェルドや真面目なマークまでもが彼女に惹かれている。
人気は男連中だけにとどまらない。レイチェルやクレアなど、年の近い同性とも仲がいいし、真面目な仕事ぶりからMS隊長のジェシカや管制官のミリアムにも可愛がられている。
スラム街出身の下層民とは思えないほど顔立ちは整っているし、実際、演技力も大したものだ。頭の回転も速いし、子供の頃から駆け回ってばかりだったせいで身体能力も高い。ここ一年で得た知識も多岐に渡る。
そんなエリスのことだから、さして危機感はない。アイドルだろうがなんだろうがなってしまうだろうし、多少の障害はものともしないだろう。彼女をずっと見てきたジュナスだからこそ、そう確信できる。
しかし、違和感は拭えない。
「じゃあさ、エリス」
ジュナスは静かに言った。
「本当に、もう町には戻らないのかい?」
「当たり前でしょ」
答えるエリスの声は、実に素っ気無かった。ジュナスは、エリスがもう生まれ故郷の町に何の未練も持っていないことを知った。
「あのさ、エリス」
「なに?」
「えっと」
自分でも、何が言いたいのかは分からなかった。ただ、言いたいことがあるということだけは、はっきりと分かる。
「だからさ」
「なによ」
いつまで経っても何も言わないジュナスに、エリスが苛立った様子で眉をひそめる。
とにかく、何か意味のあることを言わなければ。そう思ってジュナスが口をひらきかけたとき、突如として警報が鳴り響いた。
「緊急警報緊急警報。ジオンのMSと思われる機影が、多数当基地に接近中。各員は速やかに所定の位置につけ。緊急警報……」
スピーカーを通したミリアムの声が、廊下から聞こえてくる。突然の警報に、二人は驚きも見せずに立ち上がった。
「なんか、久しぶりだね」
「そうね。ま、どうせ悪あがきでしょうから、ちょちょいっと片付けてきましょうか」
肩をすくめるエリスに続き、ジュナスもまた立ち上がった。
部屋のドアを開けると、そこかしこから靴音や怒声が聞こえてきた。漂う雰囲気から判断すると、エリスの予想に反して状況は緊迫しているらしい。
「急がなくちゃね。先、行くわ」
「あ、エリス」
「じゃ、さっきの話、ちゃんと考えておいてよ。未来のマネージャーさん」
悪戯っぽく言い残して、エリスは走り去る。ジュナスも慌てて後を追ったが、足はエリスの方がずっと速い。だから、彼女の背中はあっという間に見えなくなってしまった。結局、自分がエリスに何を言いたかったのか、ジュナス自身にも分からずじまいだった。

思ったとおり、戦闘は激烈なものとなった。
ずっと以前からかなり周到な準備がなされていたらしい。何故事前に察知できなかったのか不思議なぐらい大量のMSや戦闘車両が、この基地だけを狙って押し寄せてきていた。
どうやら、この地域に取り残されたジオン軍の残党が残らず集結し、最後の賭けに出たらしい。基地を奪取し、HLVで宇宙に上がるつもりなのだろう。
ジュナスの駆る陸戦型ガンダムもまた、激しい銃火の中で味方と分断され、気づけば一機で孤立してしまっていた。
「クソッ」
狭苦しいコックピットが赤く照らされ、耳障りな警報が鳴り響く。ジュナスは悪態を吐いた。
エリスと同じくなかなかの適正を見出されたとは言え、ジュナス自身は経験の浅い若造なのだ。
いかに高性能な陸戦型ガンダムとは言え、数機のザクに囲まれて弾薬もほとんどつきたこの状況で、生き残れるとは到底思えなかった。
「ここまで、かな」
兵士らしからぬ諦めの心地でため息を吐いたとき、ジュナスの脳裏を様々な情景が横切っていった。
走馬灯のようなものだったのかもしれない。だが、頭に浮かんだのはほとんどがエリスの姿ばかりだった。それも、この基地に来る以前、薄汚い格好をして町中を駆け回っていたころの。
泥だらけの顔でにっと笑うエリス、鼻血を出しながらも果敢に相手に立ち向かうエリス、ガキ大将の体を踏んづけて勝どきの声を上げるエリス。
ジュナスは、いつ死ぬかも分からない状況と知りつつ、笑ってしまった。
「そうだよ、やっぱりエリスはこうでなくちゃ」
同時に、自分がさっき言いたかったことが何だったのかも、はっきり自覚した。
「僕は君が好きだ、エリス」
ジュナスは呟いた。彼女に届くはずはなかったが、それでも口に出した。
「おしとやかな演技をしなくたって、君を好きになる男がここにいるよ、エリス。そうでなきゃ、こんなところまでついてくるもんか」
そんな思いを伝えるためにも、
「今はまだ、死ねないな」
ジュナスは機体を立ち上がらせた。ビームサーベルを手に、陸戦型ガンダムが敵集団に向かって疾走を開始する。

結局のところ、この地域のジオン軍最後の賭けは失敗に終わった。
多大な犠牲を払いながらも、連邦軍は基地を守り抜いたのである。
なお、この日ジュナス・リアムは機体を中破させながらも八機のザクを撃破し、戦局に多大な影響をもたらしたという。

中破した機体を苦心しながら格納庫に寝かせ、地面に降り立って初めて、ジュナスは異常に気がついた。
犠牲は大きかったが、戦闘自体はこちらの勝利に終わったはずだ。
だというのに、格納庫全体が沈鬱な雰囲気に包まれている。戦勝の喜びなど、どこかに忘れ去ってしまったかのように。
嫌な予感がした。何が起きているか分からぬまま、ジュナスはただ感覚に任せて走った。
そして、見た。格納庫の隅に、人が集まっている。
「あ、ジュナス」
群集の外縁にいたクレアが、ジュナスに気づいた。ジュナスと同じ、MS隊の一員である。クレアは肩を落とし、唇を噛んでいた。まるで、ジュナスに対してどういう顔をすればいいのか分からないような、余裕のない表情だった。楽天的な彼女らしからぬ態度に、ジュナスの胸の内の不安はさらに膨れ上がった。
「……ジュナス?」
クレアに肩を抱かれていた誰かが、顔を上げてジュナスを見た。同じくMS隊に所属している、レイチェル・ランサムだった。顔半分に巻かれた包帯や、ボロボロの軍服が痛々しい。だがそれ以上に、ジュナスは彼女が泣いていたらしいことが気にかかった。
「クレア、レイチェル、一体何があったの?」
ジュナスは彼女らに駆け寄りながら聞いた。クレアは答えにくそうに目をそらし、レイチェルは耐え切れなくなったように嗚咽を洩らして泣き出してしまった。
「ごめん、ごめんねジュナス。あたしのせいで」
「泣いてちゃ分からないよ、レイチェル。クレア、一体何があったんだ? 黙ってないで教えてくれよ」
「あたしからは、何も……ごめんジュナス、あたしも突然のことで、何て言っていいのか分からないんだ」
いちいち歯切れの悪い物言いに苛立ちがつのる。だが、何があったのか、ジュナス自身にも予想がついていた。ただ、認めたくなかっただけだ。
「ジュナス、こっちへ」
群集の中から抜け出してきたサエンが、ジュナスを人垣の中心へと導いた。サエンもまた、クレア同様普段の軽さが微塵にも感じられない厳しい表情をしていた。
サエンに導かれるまま、ジュナスは歩いた。彼が来たことに気づいた人々が、自然と道を空ける。
人垣の中心には、白い布をかけられた細長い物体が安置されていた。
(何だろう、これは)
ジュナスはぼんやりと考えた。脳が、現実を理解するのを拒んでいる。
(そんな、馬鹿なことが)
笑おうとして、ジュナスは失敗した。働かない頭とは裏腹に、彼は膝をつき、震える手でゆっくりと布を剥がしていた。
布の向こうで、エリスが寝ていた。それはとても静かで安らかな寝顔で、君は寝てるときまで演技してるんだな、などとつい呆れてしまうほどだった。ジュナスは、そう思おうとした。
「外傷はほとんどないんだ」
ぽつりと、サエンが言った。
「確率としては奇跡的で、俺達にとってはそれが救いになるんだろうな。機体は大破したってのに、不思議なぐらいだよ」
自身の心の痛みなどまるで無視しているかのような、淡々とした口調だった。背後からレイチェルの泣き声が聞こえてきた。
「ごめんね、あたしのせいなの。あたしが一機だけで取り残されたから、それを助けるためにエリスさんが」
ジュナスは、レイチェルの言葉で大方の事情を察した。窮地に陥っていたのは、自分だけではなかったのだ。ただ、切り抜けられたかどうかの違いだ。自分は切り抜けられたが、エリスは切り抜けられなかった。それだけの違いなのだ。
「すごい戦いぶりだったよ。多分、撃墜数ならこの場の誰よりも多かったと思う」
それ以上喋れなくなってしまったレイチェルに変わって、サエンが事情を説明し始めた。
レイチェルを救ったエリスは、そのまま敵中に突入して獅子奮迅の戦いぶりを見せたらしい。エリスが敵の目をひきつけたからこそ、こうして無事でいられる人間も多数いるそうだ。
(ああ、そういうことか)
周囲の群衆から洩れるすすり泣きの声を聞きながら、ジュナスはエリスの意図を理解した。
(仲間を見捨てるような人間は嫌われると、そう思ったんだね、エリス)
彼女は、無謀とも言える突撃をためらいなく敢行した。だがそれは、彼女が勇敢だったからでも、仲間思いの優しい人間だったからでもない。
ただ、怖かったからだ。薄情な人間と思われ、ようやく勝ち得た他人の好意を手放してしまうのが。
(馬鹿だな、エリス。たとえ君が逃げたって、僕は)
ジュナスは拳を握り締めたまま、ただじっとエリスの死に顔を見つめていた。そして、その内に耐えられなくなってきた。
周囲の人間は、そのほとんどが泣いている。サエンもラナロウも、クレアもレイチェルも、ジェシカですら、泣いてこそいないもののやりきれない表情を見せている。
彼らは、一体誰のために泣いているのだろう。
決まっている、エリスのためだ。仲間のために一人敵中で戦い、命を落とした勇敢で心優しい少女のために。
(誰だ、それは)
静かに響く泣き声が耳障りで、不愉快だった。膨れ上がる違和感に吐き気すら覚える。
ジュナスは立ち上がり、振り返らずに歩き出した。彼が傷ついているのだと考えたのだろう、止める者は誰一人としていなかった。

ジュナスは自室に戻ってきた。誰もいない部屋は、数時間前に出たときと変わらぬ姿を保っている。空になった二つのカップ、すっかり冷めてしまったティーポットの中の紅茶。小型ポットの電源がつけっぱなしになっていたので、ジュナスは無言でコンセントを引き抜いた。捨ててしまってもいいとさえ思う。もう、勝手に部屋に上がりこんで紅茶をせがむ人間はいないのだから。
ベッドに座り、目を閉じる。涙は出なかった。
「泣いてやるもんか」
ジュナスは呟いた。
「あそこで死んでたのは君じゃない。皆が悲しんでるのは君の死じゃない。だから、僕は泣かない。僕だけは、泣いてなんかやらないからな」
薄情な物言いだと、自分でも思った。だが、文句を垂れる声は、どこからも帰ってこない。
静かな部屋の中で、ジュナスは一人唇を噛み締めた。

後に一年戦争と呼ばれることになったこの戦争は、エリス・クロードの死からおよそ一ヶ月の後に終結した。
ジュナス・リアムはあの後宇宙軍に配属され、星一号作戦やア・バオア・クーにおける決戦にも参加、並居るエースパイロットに勝るとも劣らない戦果を上げたと記録されている。
ただ、人々が不思議に思ったのは、彼自身が大して誇らしげでも嬉しそうでもなかったことと、彼の瞳が常に誰かを捜すようにさまよっていたことである。
そして戦争終結後、彼は静かに軍を去り、故郷の町へと帰っていった。

故郷の町で彼を待っていたのは、英雄であるジュナス・リアムを称える、たくさんの人間の声だった。
だが、その中の誰一人として、エリス・クロードの名を覚えている者はいなかった。
「それにしても、まさかあんたが英雄様になって帰ってくるとはねぇ」
誇らしげな母の言葉を、ジュナスはリビングの椅子に座ってぼんやりと聞いていた。
「ねえ母さん」
息子を誉める母の声を遮って、ジュナスは言った。
「エリス・クロードを覚えてる?」
「え、誰だって?」
ジュナスはため息を吐いた。
「いや、何でもないよ。変わらないんだね、この町は」
「田舎だからねぇ。あ、変わったといえば」
と、ジュナスの母は思い出したように言った。
「あんたが昔よく遊んでた近所の公園。あれ、近々取り壊されるらしいよ」

夜中だということもあって、公園には全く人気がなかった。
無言で敷地内に足を踏み入れ、辺りを見回す。
錆の浮いたブランコ、薄汚れたすべり台、壊れかけたベンチ、塗装の剥げかけたジャングルジム、。
寂れた田舎町に相応しい、珍しいところなど少しもない公園だ。そう思うだけで、思い出など少しも甦ってこなかった。
「ダメ、か」
ジュナスはため息を吐いて、ベンチに腰掛けた。
ぼんやりと公園を眺めながら、流れ行く時間に思いを馳せる。
ジュナスは、エリスの遺品を何一つとして受け取っていなかった。
エリスは、自分の身元を証明する品や、自分の本当の性格を示す物品を何一つ所有していなかったのだ。
だから、遺品として出てきたのは、いかにもおしとやかな少女らしいものばかりだった。ジュナスは、それらを受け取る資格を放棄した。受け取る意味すら感じなかった。
この町に帰ってきて、自分の部屋を引っ掻き回しても、エリスとの思い出を示すような物は何一つとしてなかった。写真の一枚もなかったし、短い期間だけつけていた日記にも、一行たりとも記述がない。それだけ、ジュナスにとってエリスという人間が、いて当たり前の存在だったということなのかもしれない。
この公園は、エリスがよく現われては子供達に石を投げつけられていた場所だ。同時に、彼女がその反骨精神を存分に発揮した場所でもある。だというのに、思い出せることは何一つない。時間が経ちすぎてしまったのかもしれなかった。
ジュナスは、急に心細くなった。
我がままで強気で、いつも下品に笑っていたエリス。
薄汚い姿で堂々と歩き、強い意志に瞳を輝かせていたエリス。
そんな彼女の姿を覚えている者は、誰一人としていない。
そんな少女は、もはやジュナスの心の中にしか存在していないのだ。
(エリスは、いなくなってしまった)
世界中どこを探しても、エリスの面影を見つけることができない気がした。
今はまだ思い出せるエリスの笑顔も、いつかは風化して消えてしまうだろう。
そんなことを考えると、ジュナスの心にとても耐え切れないほどの恐怖が湧き上がってきた。
(このままエリスのことを忘れてしまうぐらいなら、いっそ、まだ彼女の顔を覚えている内に)
そんなことを考えたとき、不意に誰かの声が聞こえてきた。
「あれっ、誰かいる」
振り向くと、公園の入り口に小さな人影が二つ立っていた。
小さな女の子と、それよりももっと小さな男の子だ。女の子の方は生意気そうな、男の子の方は気弱そうな顔をして、こちらを見ている。
「おじさん、だれ? 怪しい人?」
女の子がこちらを睨みつけながら言ってきた。ジュナスは軽く両手を広げた。
「どう見える?」
「こんな時間に公園にいるんだもん。怪しい人だよ」
「そう言ってる割には怖がらないんだね」
「だって、おじさん弱そうだし。いざとなったら金玉蹴り上げちゃうから」
そう言って、女の子は胸を張る。ジュナスは苦笑した。
「強気だねぇ。僕は怪しい者じゃない。この近所に住んでるんだ」
「ふうん。で、こんな時間になにしてるの?」
「散歩、かな」
肩をすくめるジュナスを、女の子は不思議そうに眺めていたが、
「まあいいや。ほら、怖がってないでついてきなさいよ」
「う、うん」
女の子は元気に、男の子はびくびくしながら、公園に入ってくる。
どうやら、子供らしい思い付きで、夜の公園を探検に来たらしかった。
(危ないなぁ、子供二人で。まあ、僕が見ててあげれば大丈夫か)
ジュナスがそんなことを考えている内にも、二人の探検は着々と進んでいた。
ブランコで夜風を切り、滑り台で闇に飛び込む。そして最後に、ジャングルジムにたどりついた。
「さ、さすがにこれは危ないんじゃないかな」
「何言ってんの、昼間と大して変わんないって」
怖がってる男の子とは反対に、女の子はひょいひょいとジャングルジムを上っていく。そして、一番上にたどり着いたとき、格子に足を乗せて立ち上がり、月に向かって笑いながら、両手を大きく広げた。
その光景を見て、ジュナスは目を見開いた。
(ああ、そうだ)
自分も、こんな風に夜中に抜け出して公園に来たことがあった。
エリスが、「夜中必ず公園に来て」と言ったから。
(そして彼女は、ジャングルジムに上って、僕を見下ろした。あんな風に!)
「あたし、こんな町だいッ嫌い! いつか絶対、出て行ってやるんだから!」
どこか悔しそうに唇を噛んで、そう叫んでいた姿を思い出すことすらできる。
その光景を革切りに、ジュナスの心の奥底から次々と思い出があふれ出してきた。
薄汚い格好で走り回る姿。
群がる敵に立ち向かうときの凶暴な瞳。
誰一人見送る者のいないホームに立っていたときの、清々しい中に一抹の寂しさを抱えた横顔。
勝手に部屋に上がりこんで紅茶を要求していたときの、悪戯っぽい笑顔。
(覚えてる。僕はエリスを覚えてる。こんな風に、いくらでも思い出すことができる。おしとやかで心優しい少女なんかじゃない、彼女の本当の姿を。僕が大好きだった、エリス・クロードの笑顔を。この公園が存在する限り、いつまでだって覚えていられるんだ!)
だが、本物のエリスはもう、ここに戻ってはこないのだ。
(そうだ。彼女は、)
瞳から、涙が溢れ出した。
(エリス・クロードは、死んでしまったんだ)
長い長いときを経て、ジュナスはようやく、その事実を認めることができた。
ジュナスは泣いた。声を上げて泣いた。今はもうジュナスの記憶の中にしか存在しない少女を思って、いつまでも泣き続けた。

その後の戦史を紐解いても、ジュナス・リアムが軍に復帰したという記録はどこにもない。
ただ、英雄として町に帰った少年が強行に主張を繰り返した結果、寂れた田舎町のある公園が取り壊しを免れたという、他者には理解できない不可思議なエピソードが、世界の片隅に残されているのみである。