【そして、百年の子守唄】 4296氏
僕は、眠れずにベランダから夜空を見ていた。
「眠れないのかい?」
背後から声がして、僕は振り返った。
夜空を見上げてから、その人は言った。
「確かに、眠るには惜しい夜だね。」
僕はその人と並んで、夜空を見ていた。
しばらくして、その人は口を開いた。
「昔話をしよう」
『そして、百年の子守唄』
もう何年も前になるかな。
その時代、僕はある女の子を求めていた。
好きって感覚とは少し違うんだ。
そうじゃない。
どう言えばいいか分からないんだけど、とにかく一番相応しいと感じるのは求めるという表現なんだ。
そして、信じられないかも知れないけど、彼女のほうも僕も求めてたんだ。
信じられないだろう。
僕だって同じだよ。
でもね。
それは分かってしまったことなんだ。
僕は彼女を求めている。
そして彼女も僕を求めている。
彼女が僕を求めていることに、僕は気が付いた。
僕が彼女を求めていることに、彼女が気が付いた。
繰り返すけど、それは分かってしまったことなんだ。
自意識過剰だと思うだろう?
うん、確かに最初はそう思って否定したんだ。
でもね。
いくら否定しようが、それは事実だったんだ。
僕個人の思いあがりでも、思い込みでもない。
事実だったんだ。
そしてね。
僕には確信があったんだ。
ある夏の日のこと。
とても暑い日だった。
ミーティングが終わり、みんな食堂や売店に散っていった。
僕はね、いつも通りに仲間たちと過ごすようなことはせず、そのままその部屋に残ったんだ。
仲間たちはみんな変な顔をしていたよ。
よく覚えてる。
でも確信があったんだ。
そうして誰もいなくなった教室で、僕は待った。
そしてドアを開けて彼女が戻って来たんだ。
きっと僕と同じ。
わけのわからない確信によってここに来たんだ。
僕にはそれが分かった。
気を悪くして欲しくないんだけど、これは本当に分かってしまったことなんだよ。
うん、何だか君の顔を見ていると、信じていないような気がするからさ。
彼女はとても無表情な顔で僕を見た。
僕も彼女を見た。
無表情だったかどうかは分からないな。
だって自分の顔なんて見れないからね。
そしてね。
彼女が僕の座っている座席の近くまで来た。
僕は立って、同じように近寄った。
言葉を発するようなことはしなかったよ。
言葉を発しようなんて思いもしなかったんだ。
もし、何かを喋っていたら、その瞬間に終わっていたと思う。
彼女は僕を見た。
僕も彼女を見た。
使い古された上に陳腐だけれど素敵な表現を使うなら、視線を絡ませたんだ。
絡ませたと言うより、自然に絡まった…って言ったほうがいいのかな。
それでって?
それで僕らはキスをしたんだ。
一瞬だけ唇を重ねあった。
お互いを抱きしめもしなかった。
ただ唇と唇を重ねただけのキス。
僕と彼女は離れた。
そして、そのまま彼女は外へ出て行った。
僕も自分の荷物をもった後、違う扉から外へ出て行った。
その頃には彼女を求める感覚は消えていたんだ。
そうか、吸引力って言えばよかったんだね、確かにそうだ。
僕が彼女に感じていた吸引力は完全に消えていた。
幻滅したとか我に返ったとか、そんな感じじゃないんだ。
ただ消えたんだ。
それを儚いとも思わなかった。
きっと彼女も同じだったと思う。
わけの分からない吸引力は、それだけで消えたんだ。
それ以降は、彼女を見ても吸引力を感じなかったし、何も思わなかった。
戦争が終わって、いまどこで何をしているかなんて知らないし、知らないということに苛立ちも感じたりしないんだ。
恋とは違う。
僕自身のささやかな歴史の中でも恋に落ちた女の子がいたけど…
ああ、その相手は、君も良く知ってる人だよ。
当時はオペレーターだった。
彼女を見てると、ほっとけなくてね。
話が逸れちゃったな。
それでね。
その時の感覚とは全くといって良いほど違うんだ。
あれは一体なんだったんだろうって思う時がある。
でも分からないし、分からないままでいいとも思ってる。
その日がとても暑い日だったことや、教室に残ると言った時の友人たちの表情はよく覚えているんだ。
黄色いスカーフを彼女がしていたこと。
僕が白と青のジャケットを着ていたこと。
よく、覚えている。
でも、
彼女の顔を、
僕は、
思い出せない。
そこだけ真っ白なんだ。
何で君に話したのかって?
さぁ。
どうしてだろう。
あえて理由をつけるとするなら、いつか君とこんな話がしてみたかった…って言うしかないな。
おかしいかな。
孤児院のオヤジがこんな話をするのもさ。
さぁ、もう夜も更けた。
おやすみ。
母さんや他の皆を起こさないようにね。
そうそう。
おやすみなさいを英語で言うと何て言うか知ってるかい。
Good nightは眠れる夜のおやすみ。
眠れそうにない夜に、祈りを込めて言うおやすみだよ。
『LULLA-BY.』
また明日ね、ショウ・ルスカ。