【白の記憶】774310◆EPBN0TfcJw氏




 階段を降りて、ジュナスは溢れた光に目が眩んだ。
 真っ白な天井、真っ白な壁、真っ白な床、そしてそこに立つ一人の少年。
「アルクス」
 ジュナスはその少年の名を呼んだ。
「兄さん!」
「ここにいたんだな…」
「兄さんこそ、どこへ行ってたの?! 俺、探したんだよ!」
 アルクスは安心したのと急にいなくなった『兄さん』への憤りに泣きそうになりながらジュナスへ駆け寄った。
「ここは…」
 ジュナスはアルクスに手を握られながら部屋を見渡す。
 壁際には真っ白の柱が何本も等間隔に立てられていた。
「そうだよ、兄さん。ここが俺と兄さんがいた場所だよ」
「………」
 一瞬、脳裏に痛みが弾けた気がして、ジュナスは上を仰いだ。
「兄さん、思い出した?」
「…なんとなく、ね…」
「よかった! でも兄さん。もう思い出さなくていいよ」
 音がして視線だけを向けると、アルクスのもう片方の手に銃が握られていた。
 アルクスが微笑む。
 真っ暗な闇を湛えた銃口が向けられていた。



『僕』は次の『僕』になるために、必ずあることをするようになった。
 それは真っ白な空間の中で感じたあの痛みを伝えること。
『僕』と『僕』たちの中に焼きついた真っ白な空間の赤を伝えること。
 そうしないと『僕』は『僕』でなくなる気がしたから。
 そして『僕』は、古い『僕』を捨てて、新しくなった『僕』を迎えてみんなとまた一緒に時間を過ごす。



「…驚かないんだ?」
 アルクスは―――『僕』は銃を向けても微動だにしないジュナスに首を傾げた。今までこうすると驚いて時には抵抗し、時には命乞いをするのだが、ジュナスはそれのどれにも当てはまらない。
 彼に向けている銃はちゃんと弾が入っていることも確認したし、引鉄には指だってかかっている。
 あとほんの少し力を入れるだけで、簡単に赤が散るのだ。
 彼がそれを知らないはずがないのに、なぜこんなにも冷静でいられるのか少し不思議だった。
 だがジュナスはゆっくりと首を振った。
「いや…驚いてないわけじゃないよ。違うんだ…。ただ…」
 言いかけて、ジュナスは俯いて再び考えた。
 ただ…―――なんだろう?
 心が押し潰されそうなこの感覚。
 顔を上げて、アルクス―――をもう一度見る。
 幼さを残した顔立ち、黒い髪、青い瞳、どこにでもいそうな少年だ。
 だが、その顔を見ているうちにようやくジュナスはあぁ、そうかと心の中で頷いた。
 これは―――悲しいんだ…。
 ジュナスは『僕』に向き直り、彼の『名前』を呼んだ。
 あの笑顔が脳裏に鮮明に蘇える。
「ノア。君なんだね」
 アルクスの口に浮かんでいた笑みが固まった。
「え? …どうして…?」
 覚えているはずがない。精神に介入して段階的に支配する。ずっとやってきた方法だ。一度にやると精神崩壊を起こすから、精神感応を施して『僕』たちと一緒に過ごしていると錯覚させて平衡を保たせる。
 最終段階に進むまでは、それを悟られるといけないから一時でも支配から逃れた時はその記憶は表層には出ないようにだってしている。だから、『僕』たちを支配から逃れている時に思い出すなんてこと、絶対にないはずなのに。
 『僕』は銃口をジュナスに向けたまましばらく固まっていたが、やがて歯を食いしばるとジュナスを睨みつけた。
「僕に、何をした…!?」
 その口調は幼い子供のものだった。
 ジュナスの目に、ある男の子の姿が見える。ぼやけたその姿は、アルクスに被さって見えた。
「お前だってニュータイプだろ! 僕に何かしたな!? くそっ!」
 今にも地団駄を踏みそうだった。だが『僕』は銃口はジュナスに向けて放さなかった。
 そして激しい怒りと憎しみがこもった目でジュナスを睨みつける。
 しかしジュナスは真っ直ぐに『僕』を見つめ、一歩その距離を縮める。
 途端、癇癪を起こしたように『僕』が叫ぶ。
「来るなよ! お前もやっぱり真っ白な大人たちと同じなのか! お前も『僕』たちをあの目で見るんだ!」
 だがジュナスは静かに言った。
「違うよ」
「違わない!」
 拒絶するように銃を持っていない方の手で払う。
 だが次の瞬間、ジュナスはもう一歩距離を縮めると『僕』に手を差し伸べ、ずっと心に感じていたことを口にした。
「君は、僕に会いに来たんだろ」
 再び『僕』の顔が驚愕に染まった。



『僕』は廊下を歩いていた。誰もいなくなった真っ白な空間に、『僕』は一人になった。




「ノア。君は、僕を精神感応から解放する直前、僕の傍に来たね。分かっていたんだけど、もう体が動かなくてどうしようもできなかった…」
「気付いてた…? なんで…どうして…」
「多分、ノアが呼んでたからだよ。君はよく僕を呼んでたから」
 そう言ってジュナスはどこか懐かしげに微笑んだ。
「本当はフォレやエリッセよりずっと、ノアは寂しがりだったよね」
「う、嘘だ…でまかせだよ、そんなの…何でそんな…」
『僕』が構えた銃口はぶるぶると震えていた。だがジュナスの体の中心に向けられ、今撃っても確実にジュナスを撃ち抜くだろう。
 しかしジュナスは銃などもはやないかのようにどこまでも優しく『僕』に語りかけた。
「何でか知りたいかい?」
「………」
「それはね、僕がずっと、みんなを…ノアを見ていたからだよ」
 だから知ってるんだ。
『僕』は差し伸べられたジュナスの手を見る。全身がぐちゃぐちゃになってどうにかなりそうだった。今までこんなことなかった。
 感応していた時に優しい顔を見せていた誰だって、最後には豹変し、自分に汚い言葉を投げかけ罵り、抵抗した。
『僕』はそんな彼らをいとも簡単に殺し、そして乗っ取った。
 なのに…
「ノア」
 ―『僕』に向けてくれる笑顔。一緒にいた時と同じ笑顔。
 ―あんなに優しくて安心する笑顔、初めてだった。
 ―本当は、一緒にいたかった。
 ―ずっと…一緒に、いたかった。
 ―会いたくて、会いたくて、会いたくて、会いたかったんだ……。
『僕』の目から涙が零れ落ちた。
「…ジュナス…お兄ちゃん……」
 だけど―――
『僕』は銃の引鉄に指をかけ、腕を真っ直ぐに伸ばし、銃口を向けた。
「ごめんなさい……」
 真っ白な空間に、赤が散った。
 散った赤と共に力が抜けて、ジュナスはがっくりと膝をついた。反射的に傷口にあてた手がみるみる赤色に染まっていく。
「は、ぁ…ッ―――」
 大量の息が吐き出され、滴る血があっという間に真っ白な床に広がっていった。
 だがジュナスは体を穿った銃弾による傷よりも、心に感じる痛みのほうを強く感じていた。
 顔を上げ、ノアを見る。彼を責めるでもなく、憎むでもなく、問いかけるでもなく、ジュナスはただ、彼に微笑みかけた。
「ノア…もう、いいんだ…。レミニナが全部…教えてくれたよ」
「え…?」
「君は…計画が中断されたことを知ってたんだね…」
 暗闇で目を覚ました時、ジュナスは肩に触れる存在を感じた。そしてその存在が手を握った時、それが誰なのか分かった。
 わがままでいつも無愛想にむくれていた女の子。不器用で優しい子―――レミニナ。
「ノア、君は計画が中断されて…この施設もなくなってしまうと思った…。だから、これ以上みんなと離れないですむように、計画を続けたんだ…」
 ジュナスをこの地下室へ案内しながら、レミニナは言った。
『あいつの精神はもう限界なのよ…。もう誰かの体を借りても持たないとこまできてんの。あいつ…ばかだから、一人でなんでもかんでも背負っちゃって、あたしの話も聞かないのよね。もう…ここには、ほんとはあたしとあいつしかいないから…』
「僕の夢の中やノアたちと過ごした記憶の中にいる他のみんなは、ああいう風にしかもう存在していられなくなったんだよな…」
「や、やめろよ…」
 ノアの脳裏に記憶が蘇る。
 ロビーの真ん中に取り残された『僕』
 みんなの笑い声が聞こえていた昨日。
 それが消えてしまった今日。
「寂しくて…寂しくて…君は、次に移る人への感応する時には君が過ごしたみんなとの記憶を使った。そうすれば…その時だけは、みんなと一緒にいられるから…」
『けど…結局は寂しさに耐えられなかったのよ。現実は正反対ですごく静かだから、戻ったときに倍になった寂しさを感じてた。あたしは…普段はあいつの前にはいないから、あいつの傍にはいられないのよ』
 ジュナスはレミニナの握る手をたしかに感じながら、暗闇に向かって首を傾げた。
 レミニナが苦く笑った気がした。
 


『あたしは…システムだから。計画を補助していたLeming Systemなの』
「ノア…」
 ジュナスは震える膝を起こし、立ち上がった。
「もう…やめよう」
 そう言ってノアに向けて手を伸ばし、銃の上から彼の手をやんわりと握る。
「もう、いいんだよ。ノア」
 そのとき、『僕』の手から銃が抜けた。そしてがっくりと力なく膝をつく。
「ジュナス…お兄ちゃん…」
「ノア…ずっと気付いてあげられなくて、ごめんな」
 ノアはその手を取ると、幼子がそうするようにジュナスに抱きついて声を上げて泣き出した。
 ふわりと優しい温もりをもった手が頭を撫でる。
「ずっと寂しかったんだよな…。怖くて仕方なかったんだよな…。よく…頑張ったね」
「っふ…く、ごめ…っなさ…! ごめん…っな、さぃ…!」
「いいんだ…いいんだよ…。だから…もう、終わりにしよう…」
「…っ」
「他のみんなは…? どこにいるんだ?」
「上に…いる…」
 ジュナスは頷くとノアの助けを借りて階段を上り、ロビーへ出る。
 たくさんの子供の思念を吸い込み、膨張した白が二人を迎える。
 ノアは静かに目を閉じた。ふわりとノアの心が散っていく。
 するとホールの天井からぶら下がっていた円筒形がゆっくりと降りてくる。円筒形は音もなく二人の前に降りると、人一人が通れるほどの入り口を開いた。
「ここに…みんな、いるのか…?」
 ノアは鼻をすすって、こくりと頷いた。
「僕も…ここに、いる…」
 円筒形の中は真っ白だった。
 入っただけで解った。この円筒形は、ニュータイプの能力を最大限に引き出すためのサイコミュ装置だ。
 そして、真っ白な円筒形の中には、円を描いて置かれている物が七つ。
 それは円筒の透明なガラスケースに入れられた人間の脳だった。
 大きさからして、全て子供のものだ。
「これが…ノア達、なのか…」
 ノアは小さく頷いた。
「でももう…俺以外はほとんど反応しない…。みんな…もう、駄目なんだ……」
 ノアの目から再び涙が溢れる。
「俺も…もう…!」
 肉体を失い物のように扱われた子供たち。彼らはその存在意義を失ってもみんなと一緒にいたいと願い、そしてある計画を考えて実行した。Leming Systemであるレミニナが施設の維持に必要な肉体をもつニュータイプを誘い込み、ノアがその精神を乗っ取り、全員でドームで暮らし続ける。
 だが子供の幼い精神は次第に蝕まれ、次々と『死』を迎えていった。
 それでも、レミニナとノアはやめなかった。
 過ぎ去った昨日の中だけでも、みんなと会えるのなら―――そう思ってノアは続けた。
 独りに耐えられなかったのだ。
 ジュナスはノアに支えられながら、七つのガラスケースに微笑みかけた。
「みんな…やっと、会えたね…」
「ジュナスお兄ちゃん…」
 ジュナスはゆっくり振り返り、ノアに微笑みかける。
「ノア…僕はお前たちのことを絶対に忘れないよ。約束する…」
 そう言ってもう一度、ノアを抱きしめた。
「だから…もう、寂しくなんかないんだよ」
 一発の銃声が鳴り響き、真っ白な空間に赤が散った。
 ノアは抵抗しなかった。
 ただ、愛しい人の腕の中で眠りにつく幼子のように、安らかに目を閉じた。



 銃声を聞き、ロビーに駆けつけると以前来た時には天井にぶら下がっていた円筒形が降りているのに驚く。
 マークとラナロゥは入り口があるのに気付いて、円筒形の中へ飛び込んだ。
「ジュナス!!」
 アルクスを抱いてジュナスは壁に力なくもたれていた。二人とも体は血に染まり、アルクスはぐったりとして動かない。
 まさか、という思いが二人の頭によぎったが、ジュナスがうっすらと目を開けて二人を見る。
「ジュナス…!」
「ギル…ラナロゥ…来て、くれたんだ…」
「お前、怪我してるのか?」
「うん…撃たれて…」
「はぁ?!」
「アルクスは…?」
 その言葉にゆらゆらと首を振る。
 まだ温もりを残した体は二度と動くことはない。
 マークとラナロゥは、安らかな表情をして眠っているアルクスを見て何かを悟ったようにそれ以上聞こうとはしなかった。
「……ジュナス、ここを出るぞ」
 ジュナスはマークの言葉にゆっくり頷くと、しかし顔を上げ、ひたと彼を見つめる。
「ギル、頼みがあるんだ」
「…なんだ?」
「MS…乗ってきてるんでしょう?」
「あぁ…フェニックスだ」
「それを少しの間、貸してほしい」
「何をする気だ?」
「大丈夫。変なことはしないよ。ただ…二度と、この子達が嫌な夢を見ないようにしたいだけなんです」
「………分かった」
「いいのか?」
 ラナロゥが小声で囁く。だがマークは考えるまでもないと、無言で頷いた。
「行くぞ。ラナロゥ、アルクスを頼む」
「おぅ…」
 まだ温もりの残るアルクスを抱えラナロゥが先に行き、マークもジュナスの脇の下に腕を差し入れる。
「立てるか?」
「多分…ッ―!」
「ジュナス…!」
「いえ…、大丈夫…です……」
 じわりと更に銃創から出血し、支えたマークの手を染めた。
 こいつは傷ついてばかりだな…、とその血を見た時、小さな声がマークの耳に入る。
「ギル…」
「ん?」
「……いろいろ、ごめん…」
「………馬鹿が」
 真っ白な天井、真っ白な壁、真っ白な床にぽつぽつと赤を落としながら、二人は別世界から現実へ戻った。
 ジュナスをシートに座らせ、マークはその後ろに控えるように佇む。
「いけるか?」
 こくり、とジュナスは小さく、だがたしかに頷いた。
 


 顔つきが変わる。
 優しさと強い意志がこもった指がトリガーにかかる。
 ジュナスはフットペダルを踏み込み、左のレバーを操作して空中へ浮き上がる。
 真っ白なドームは未だに現実を拒否する小さな世界をそこに存在させていた。
 多くの大人の勝手な思惑と、それ以上の多くの子供たちの悲しみと絶望を抱えた世界。
 誰にも救われることのなかった『僕』たちが願った、あまりにも小さく拙い幸せ。
 ジュナスは『僕』が息絶える前の表情を心に抱きしめながら、トリガーを引いた。
 計十基のファンネルが宙に飛び出し、軽やかに舞う。そして、『僕』たちがいた小さな白い世界を打ちのめした。
『僕』たちの物語の終わりを告げるにはあまりにも小さな爆発が起き、全ては真紅の炎に消えた。
 ジュナスの心に『僕』たちの笑顔を残して。





 シートをマークに明け渡し、ジュナスは意識を失った。艦に着いてすぐに緊急治療室へ運ばれ、即座に手術が行われた。出血はひどいが、幸いにも命に別状はなく、ついでに行われた精神検査でも以前認められたような異常はなかった。
 そして、アルクスは死亡が確認され、静かにベッドに寝かされた。
「ドームは自爆装置の作動により爆発、炎上…そういうわけですね?」
「あぁ」
 マークは腕組みをし壁にもたれ、目を瞑ったまま素っ気なく頷いた。
 まるでこれ以上勘ぐるなと言わんばかりの態度に少々苛立ちを覚えないでもなかったが、ニキは溜息をひとつつくと、彼に向かって書類の束をデスクに投げ出す。
 マークが目を開き、ちろりとそれを一瞥する。
「なんだ?」
「調査を依頼していた件の報告書です。アルクスという少年ですが、失踪しその後死亡確認されたと言いましたがそれは巧妙に操作されたものと判明しました。接続元はあのドームです。既に部署が解体された後でしたから、誰がやったのかは不明ですが、ドームにいた彼はアルクス本人でした」
「そうか…。で? 子供たちについては、何か分かったか?」
「いいえ、彼らはそれぞれ戦災地や貧困街の出身だったようで、名前すら記録されていませんでした。数少ないドームの記録に、彼らは全員アルファベットと番号で分けられ、呼ばれていたことが示されています」
「………」
「上層部よりこの件について報告を求められています。あなたやラナロゥ、ジュナスには証言を求めるでしょうが協力をお願いします」
「分かった…。そろそろあいつの麻酔が切れる頃だ。様子を見てくる」
「分かりました。私もあとで行きます」
「あぁ」
 素っ気なく言うと、マークは艦長室から出て行った。
 医務室前の廊下の角を曲がると、ラナロゥもちょうど入るところだったようで「よぅ」と手を上げる。
「そろそろ切れる頃だと思ってよ」
「あぁ、俺もだ」
「それに起き抜けにまた暴れられても困るしな」
「はは、それはさすがにないだろう」
「ドクターは無理させない程度にしろ、つってたぜ」
「あぁ、もともとそのつもりだ」
 ジュナスはまだ目覚めておらず、どこか血の気を失った顔は触れたら凍えるほど冷たいんじゃないかと思うほど青白かった。壁際のカーゴに目をやると、最初にジュナスを施設で保護した時に着ていた白い上下服が畳まれた状態で入っていた。
 そのカーゴの隣、ガラス窓のついた壁一枚を隔てて、アルクスもとい名前もない子供の精神を宿していた少年が横たわっている。もちろん、窓には分厚いカーテンが敷かれてその姿を見ることは叶わない。
 


「…っ―――」
「お、起きるかも」
「あぁ…」
 マークは壁の向こうから目をそらし、ジュナスを見る。
「ジュナス」
 名前を呼ぶその声に、ジュナスは目を覚ました。
 うっすうらと目を開けると、マークとラナロゥの二人が視界に映る。
「………」
「分かるか?」
「あぁ…」
 ひどく掠れた声だった。体が鉛のように重く、指一本動かすのも億劫になるほどだ。
「艦の医務室だ。随分出血はしていたが命に別状はないそうだ。傷口ももう塞いだしな」
「そう…ですか…。 あの…」
「ん?」
「ノア…は?」
「……寝かされている」
「そうか…。よかった…」
「へっ、こんな時まであいつの心配かよ。お前、どこまでお人好しなんだよ」
「お人好しなんかじゃないよ…。僕は、あの子の本当の名前も知らないし、本当の顔も声も分からないんだ…たしかに何度も過ごしたのに……」
「無理もない。あそこにいた子供たちは、名前なんて最初からなかったのさ」
「……僕、ノアや他の子と過ごしていた時、名前を聞いてたんです。でも、今考えれば、あれは僕の記憶の中から引っ張ってきていたんだな…」
「どんな名前だったんだ?」
「マルク…スェイ…エリッセ…クリエ…フォレ…リッチェ…そして、ノアとレミニナ……。でもレミニナはシステムそのものだったから、実際は七人の子供だった…」
「そうか…」
「僕、ノアと…あの子と話す前に、レミニナから全部聞いたんだ。その時にあの子の記憶も一緒に見た…。そこでは、あの子、自分のことをずっと『僕』って言ってた。それが…名前みたいだったんです…」
「けど、あいつは自分でノアだって言ったんだろ?」
「きっと…あの子は、箱舟を作ってたんだ…」
「……ノアの箱舟。聖書の話か」
「はい…」
「………」
「ジュナス」
「はい…?」
「お前は覚えているはずだ」
「え?」
「ノアと名乗った少年と、彼が救いたかった子供たち。お前が最後の最後で救ったんだ。覚えているはずだ。彼らの声も、姿も、笑っていた表情も。全部」
「………」
 そのとき、耳の奥にたくさんの笑い声が聞こえた。
 


 脳裏に全員の姿が蘇る。泣きそうな不安顔のフォレ、その手を離すまいと強く握るエリッセ、陽気に笑うクリエ、その隣の楽しげなリッチェ、どことなくふてくされたようなスェイ、静かに微笑んで佇むマルク、そして―――
 全員がジュナスの前に立っている。
『ジュナスお兄ちゃん!』
 ノアが、笑っていた。
 見上げる顔は心からの笑顔で、手を差し伸べている。
 ノアは何度も見た白い半袖Tシャツと長ズボン、白い靴を素足に履いていた。

 ―また、会えるから。
 ―約束。

 にっ、と笑ったノアの顔がそう言っていた。
 ジュナスはいつの間にか泣いていた。だが悲しくはなかった。
 そして、ノアの小さな手に自分の手を重ねると、包み込むようにしっかりと握り締めた。
 とても、温かかった―――。
 奥から白い温かな光が差し込み、マルク、スェイ、リッチェ、クリエ、エリッセ、フォレの六人がその中に消えていく。
 ジュナスとノアはその光に向かって歩き出した。
 ノアの口が動く。だが言葉は直接心の中に流れ込んできた。

 ―ジュナスお兄ちゃん。
 ―うん。
 ―……ありがとう。
 ―…うん。
 ―……大好き。

 そう言うと、ノアも白い光の中に消えていった。
 だが手に残った温もりは、しばらくの間、消えることはなかった。


 終